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AIの危険性

今日の危険性は、AIの危険性に関して

まぁ、このネタは擦られた感ありますが、僕の視点を述べたいと思います。

めっちゃ便利で、正直僕の右腕です。ですが、この問いやってみたいと思います。

AIで危険性と問うと、

・兵器の開発
・偏見差別
・プライバシー
・ディープフェイク
・誤用や悪用

というような文言がでていますが、

ん〜どれもあるけどちょっと離れている感じがする。

と思うのは僕だけでしょうか?

AIの本当の危険性は、

「思考の欠如」

であると感じます。

つまり、簡単にいうと「バカになる」ということ。

人間の根本は成長であり、変化であり、変化は時間であり、時間は経験であり、経験が人生になってくる。

すなわち、「便利」の犠牲に「経験」を損なうことになる。

プロンプトという、マジカルワードを入力するだけで、瞬時に「答え」がやってくる。

それを引用して、何かを乗り切る。

それって、「ベターな人生」なのではないでしょうか?

プロンプトを入力するだけで、「文章」のみのならず「動画」や「画像」が出てくる。

一説には、「もう作家いらないのでは?」と言われていたりする。

さて、このAIに「作家機能」はあるのだろうか?

そもそも「作家」ってなんぞ。

という部分から見ていくと

例えば、「会議のシーンの動画をつくって」というと会議のシーンが出来上がる。これは、大変便利でよく使う、しかしこれは「作家」ではない、

「予測される画像の生成」でしかない。

では、「作家」という領域はなんなのでしょうか?

それは、「エネルギー伝達」だ。と考えられます。

「エネルギー」が鍵になってくるわけです。

文章にしろ、画像にしろ、動画にしろ、「エネルギー」が必要なのです。

それはテクニカルなデネルギーではなく、「込める」エネルギーの類となります。

では、「込める」とは一体どんなものなのか?

僕は、いままで一度だけ、教科書に登場するピカソの書いた「ゲルニカ」の本物を見たことがあります。

教科書では、小さな写真でしか表現されないが、実際には、縦3.5X横7.6の巨大な作品です。

この大きさ、迫力、これは「エネルギーの塊」だと直感しました。

AIで絶対にできないのがこの、「エネルギー」の部分なのです。

テクニックなどはAIで事足りるかもしれないが、「エネルギー」の部分は難しい。

将来、AIをつかって作品を書く人がいるかと思うが、

この「エネルギー」の部分がないと薄っぺらいものとなる。

そして、人間にはこの「エネルギー」を「感じる」感覚器があると想像している。

「人間にも」が正解かと思う。

AIの危険性は、「思考」と述べたが、

ここでいう「思考」は、「技術部分」ではなく、「エネルギー」の部分だ。

なので、正しくは思考ではなく「感情」なのかもしれない。

「思考」が欠如した場合、どうなるか?

「リカバリ」ができなくなる。

失敗をしても「リカバリ」できない、つまり、「緊急対応」できない思考となる。

その時でも「AI」にお願いするだろうが、AIにとって、「プロンプト」そして、「DB」からの「予測」しか計算できないので、

「今」の対応はできなくなる。

ただ、「DB」には人類の知見が詰まっているので、便利なのです。

さて、将来AIが人類を凌駕する「シンギュラリティー」があるのか?

僕はあると思っています。

シンギュラリティとは「特異点」を指す。人工知能が人間を超えちゃうというSF的なやつです。

シンギュラリティの問題は映画「ターミネーターシリーズ」なんかで描かれている。

実は今だってコードは書ける。

数万回のトライアンドエラーを簡単に繰り返すことができる。(まぁエラーで帰ってくるけどね)

コードなどの、機械言語はそれで良いが、

「判断」などの要素にAIを使い出すとイマイチだと思う。

「判断」には、「倫理的要素」が絡むからだ。

残念ながら、今の市場のDBには、「倫理的要素」が少なすぎる。

まだ、「倫理」は数学的に解けるものではない。

統計的にも不利である。

スピリチュアル的にはOKである。

そして残縁なのがDBにスピリチュアルは相性が悪い。

したがって、重要な判断をAIに任せるというのは危険である。

「倫理的思考」「法律的思考」「科学的思考」「スピリチュアル的思考」「数学的思考」「言語的思考」

など、さまざまな角度から思考してくれればいいんですけどね。

実はこの文章もAIで書いて・・・・ません!


AIの危険性

今日の危険性は、AIの危険性に関して

まぁ、このネタは擦られた感ありますが、僕の視点を述べたいと思います。

めっちゃ便利で、正直僕の右腕です。ですが、この問いやってみたいと思います。

AIで危険性と問うと、

・兵器の開発
・偏見差別
・プライバシー
・ディープフェイク
・誤用や悪用

というような文言がでていますが、

ん〜どれもあるけどちょっと離れている感じがする。

と思うのは僕だけでしょうか?

AIの本当の危険性は、

「思考の欠如」

であると感じます。

つまり、簡単にいうと「バカになる」ということ。

人間の根本は成長であり、変化であり、変化は時間であり、時間は経験であり、経験が人生になってくる。

すなわち、「便利」の犠牲に「経験」を損なうことになる。

プロンプトという、マジカルワードを入力するだけで、瞬時に「答え」がやってくる。

それを引用して、何かを乗り切る。

それって、「ベターな人生」なのではないでしょうか?

プロンプトを入力するだけで、「文章」のみのならず「動画」や「画像」が出てくる。

一説には、「もう作家いらないのでは?」と言われていたりする。

さて、このAIに「作家機能」はあるのだろうか?

そもそも「作家」ってなんぞ。

という部分から見ていくと

例えば、「会議のシーンの動画をつくって」というと会議のシーンが出来上がる。これは、大変便利でよく使う、しかしこれは「作家」ではない、

「予測される画像の生成」でしかない。

では、「作家」という領域はなんなのでしょうか?

それは、「エネルギー伝達」だ。と考えられます。

「エネルギー」が鍵になってくるわけです。

文章にしろ、画像にしろ、動画にしろ、「エネルギー」が必要なのです。

それはテクニカルなデネルギーではなく、「込める」エネルギーの類となります。

では、「込める」とは一体どんなものなのか?

僕は、いままで一度だけ、教科書に登場するピカソの書いた「ゲルニカ」の本物を見たことがあります。

教科書では、小さな写真でしか表現されないが、実際には、縦3.5X横7.6の巨大な作品です。

この大きさ、迫力、これは「エネルギーの塊」だと直感しました。

AIで絶対にできないのがこの、「エネルギー」の部分なのです。

テクニックなどはAIで事足りるかもしれないが、「エネルギー」の部分は難しい。

将来、AIをつかって作品を書く人がいるかと思うが、

この「エネルギー」の部分がないと薄っぺらいものとなる。

そして、人間にはこの「エネルギー」を「感じる」感覚器があると想像している。

「人間にも」が正解かと思う。

AIの危険性は、「思考」と述べたが、

ここでいう「思考」は、「技術部分」ではなく、「エネルギー」の部分だ。

なので、正しくは思考ではなく「感情」なのかもしれない。

「思考」が欠如した場合、どうなるか?

「リカバリ」ができなくなる。

失敗をしても「リカバリ」できない、つまり、「緊急対応」できない思考となる。

その時でも「AI」にお願いするだろうが、AIにとって、「プロンプト」そして、「DB」からの「予測」しか計算できないので、

「今」の対応はできなくなる。

ただ、「DB」には人類の知見が詰まっているので、便利なのです。

さて、将来AIが人類を凌駕する「シンギュラリティー」があるのか?

僕はあると思っています。

シンギュラリティとは「特異点」を指す。人工知能が人間を超えちゃうというSF的なやつです。

シンギュラリティの問題は映画「ターミネーターシリーズ」なんかで描かれている。

実は今だってコードは書ける。

数万回のトライアンドエラーを簡単に繰り返すことができる。(まぁエラーで帰ってくるけどね)

コードなどの、機械言語はそれで良いが、

「判断」などの要素にAIを使い出すとイマイチだと思う。

「判断」には、「倫理的要素」が絡むからだ。

残念ながら、今の市場のDBには、「倫理的要素」が少なすぎる。

まだ、「倫理」は数学的に解けるものではない。

統計的にも不利である。

スピリチュアル的にはOKである。

そして残縁なのがDBにスピリチュアルは相性が悪い。

したがって、重要な判断をAIに任せるというのは危険である。

「倫理的思考」「法律的思考」「科学的思考」「スピリチュアル的思考」「数学的思考」「言語的思考」

など、さまざまな角度から思考してくれればいいんですけどね。

実はこの文章もAIで書いて・・・・ません!



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