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アモスケイグからバトンを受け、501XXを支えたコーンミルズのデニム生地!その歴史とは!?
昨日の続き。
それでは1915年にアモスケイグ社から
バトンを渡されたコーンミルズ社とはどんな会社
だったのか。
コーンミルズ社は1891年に誕生。
![](https://assets.st-note.com/img/1689048035123-nj76wya0zq.jpg?width=1200)
1895年にはノースカロライナ州グリーンボロに
最初のデニム製造工場ができました。この工場は
プロキシミディコットンミルズと呼ばれる
1号工場として知られています。
そして1905年に同じくグリーンボロに
ホワイトオーク紡績工場が誕生するのです。
この工場は2017年に閉じられるまで、リーバイスの
生地のみを供給する工場として稼働しました。
このホワイトオークという名前は
工場近くにあった寿齢200年の樫の木にちなんだ
名前です。
![](https://assets.st-note.com/img/1689048073493-NsBwpjm1Z1.jpg?width=1200)
1910年にはこのホワイトオーク工場から
世界のデニム生地のうち3分の1を供給。
1915年にはリーバイス社と独占契約を結び
生地サプライヤーとして長年のパートナーシップが
スタートするんです。
ここでリーバイス社のデニム生地に「赤耳」が
採用されたんです。
ここから続く長い間のパートナーシップには
コーンミルズ社が常に新しい生地に対して取り組む
姿勢があったからのようです。
![](https://assets.st-note.com/img/1689048114479-LsNfdW4os4.jpg?width=1200)
1921年には今も続く連続ロープ藍染め機の特許を
取得。
こうして中白と呼ばれるインディゴの糸は安定的に
且つ大量に供給されるようになるんです。
この特許がなければジーンズがここまで愛される
こともなかったかもしれません。
アモスケイグ社時代のデニム生地も中白の糸で
なかったわけではないのですが、染め方が
ロープ染色ではなかったのでおそらく供給量には
大きな差があったと考えられます。
ここで生産量について雑記します。
記録によると1932年にはプロキシミティと
ホワイトオーク工場で年間生産量7,500万ヤード。
約68,250,000メートル。
ジーンズ一本の要尺が2.5メートルとして実に
2,730万本ものジーンズを供給していたことになります。
さらに
コーンミルズ社の新しい試みの一部を書き出すと
1932年にはサンフォライズデニム生地を生産。
1936年にはコーンディープトーンデニムが誕生。
※色落ちしにくく、耐久性のある生地として人気の
高かった生地です。おそらくジェルトデニムに近い
生地と推測できますね。
1962年には世界で初めてストレッチデニムを
生産します。
またコーンミルズ社の先見の明があった事例として
多くの工場がまだ環境汚染など考えなかった
1940年代にすでに排水処理プラントを開発、建築し
いち早く環境問題にも取り組んだんです。
すごいですよね^_^
第二次大戦中には工場の敷地をアメリカ陸軍にリース。
軍の存在はグリーンボロの経済を助けて、
終戦時にいち早く平時に戻ることができたそうです。
こうしたことも戦後デニム生地をいち早く供給し、
ジーンズの生産を助けた大きな要因かもしれません。
コーンミルズ社は新しい試みを重ねながら
長きに渡ってデニム生地のナンバーワンを保って
来た会社ではないでしょうか。
そんなコーンミルズ社も2003年に破産。
2004年からはコーンデニム社と名前を変え
再出発しています。
そして2017年。
惜しまれながらホワイトオークの工場は112年の歴史
に幕を下ろすんです。
駆け足でちょっとコーンミルズ社の歴史を
追っかけてみました^_^
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