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電撃電影館③ 何故原作有の実写邦画は失敗するのか。

結論は至極簡単

原作が、アニメだろうと漫画だろうと小説だろうと、多くの脚本家と監督が、原作通りに作ろうという気がないから。

何故か。
原作通りを求めるのなら、原作の台詞をそのまま箇条書きにすれば良く、脚本家の入る余地がない。また原作通りに描くのなら、監督の個性が必要ない。それが基本の考えだ。
ただし、こうなったのには理由がある。日本映画、邦画の黎明期から、原作と映画の関係を、歴史的な背景を含んでわかりやすく説明したいと思う。
今回は敬称略と、させていただく。

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金田一耕助は背広姿が当たり前

皆さんは、推理小説が原作の映画で、犯人を変更された形で映画化されたと聞き、信じるだろうか。
原作の変更では、性別や年齢がまずだが、推理小説の今回である犯人を変更してというのは、今の時代では、まず認められずに非難大炎上だろう。
だが犯人が変更になったというのは、一作ではない。相当な数になっている。

1977年東宝作品、石坂浩二七代目金田一作品の三作目『獄門島』。
予告編では、原作者である横溝正史氏本人が登場し、犯人を知らないと断言する。
この頃は、まだ原作との乖離に関しては、鷹揚だったとされる。

『三本指の男』より

遡り、1947年の、金田一耕助初映画化作品は、『本陣殺人事件』を原作にした『三本指の男』になる。
ご覧の通り、片岡千恵蔵の金田一耕助は、ビシっとした背広姿。多羅尾伴内と間違えんばかりだが、これが映画の金田一であり、これは石坂金田一まで覆らなかった。TシャツにGパンの金田一も珍しくなかった。

あの高倉健まで、金田一を演じている。今からすれば、まず信じられないだろう。石坂金田一以降も何作が、テレビ作品ではあるが、着物でボサボサから離れた作品が存在する。

つまり、映画界での金田一は、圧倒的に、背広姿の探偵なのだ。
原作のイメージを、遥かに捨て去った挙句、犯人まで変更された。
今、同じ事をしたら、まず許されないだろう。
問題は、これが、つい最近までは、作者側も観る側も、許容していたという現実だ。

『野獣死すべし』の時代性

大藪晴彦原作の『野獣死すべし』は、1958年に発行されてから、都合三度、映画化されている。
1959年、仲代達也主演作品が、内外に評価が高い。
1974年、藤岡弘主演作品は、原作発表から15年経過で、原作を時代に則した設定が垣間見える。
そして1980年、松田優作主演作品。この作品が、一番存在を知られているとは思うし、奥歯を抜いた鬼気迫る演技も有名。ただし原作者からは不評であったのはこの作品であり、また脚本の丸山昇一の、当該物語の設定に関する悩みは、漫画の『松田優作物語』に詳しい。

現在の価値観からすると、認められるのは仲代作品であり、松田作品は邪道になるだろう。だが、作品単体の人気は、圧倒的に松田作品になる。
過去、原作者は作品の映画化に関して、すべてお任せします、というスタンスが多かった。それは小説に限らず、漫画も同じ。今でも『静かなるドン』の新田たつおはそのスタンスであり、OVAやドラマ化でも、独自の『静かなるドン』が多く描かれて、制作されている。それが上手く運んでいるのならば、問題はない。
立場の差もあったが、80年代から、原作者の主張というのが、報じられるようになる。それは映画からではなく、アニメからとなった。これには後述する、ある作品の原作者との関係が少なからず影響している。

ルパンとラム

1979年作品『ルパン三世・カリオストロの城』は、前作の1978年作品『ルパンvs複製人間』よりも興行収入が走らなかった。上映当時、おじさん化したルパンを観たくない、こんなのルパンではないとされてはいたが、当時はビデオデッキも少なく、テレビ録画できた者も日本で数える程度。地域地方の公民館の上映の噂を聞くと、わざわざ足を運ぶファンが相当いたし、高校生も多かった。ガンダムの早朝上映で鍛えられた戦士達からすると、それは苦労にはならなかった。
結果、『カリオストロの城』は最高傑作と呼ばれるが、それが足枷となり、新しいルパンは、カリオストロの城を超えようと毎回苦しみ、結果越えられないを半世紀以上も繰り返しているとされ、その意味では、ルパン三世というコンテンツは、もう死んでいると評す者もいる。
ルパン三世は、原作からすると、アニメや映画は別物と考えるしかない作品群と化したし、今では舞台が異世界だ。継続できるだけ人気はあるのだろうが、原作重視からは一番かけ離れた作品だろう。1987年作品『風魔一族の陰謀』制作の際に起きた各種トラブルは、作品の原作、そして育てた側、存在する世界観との関係性の乖離を予実に示した。
2005年作品『天使の策略』は、旧来のファンや制作陣からすれば最高の作品という触れ込みだったし、そういった意見も多かった。だが、ルパンがボスを撃ち殺すというだけで、認めない新規参入のファンも多く、賛否が今でも分かれている。アニメでは山田康夫の考えもあり、人殺しをしない描かれ方がアニメ二期から主流になったが、それは原作のルパン三世からすると、ありえないのだ。原点回帰という表現が作品の制作側から出始めたら、もう怪しいと思えば良いだろう。
『うる星やつら』に関しては、以下の動画を観るのが、わかりやすい。

『原作者』と、映画媒体としての『作品作者』が、明確に違うと表に出たが、この手の話は、表に出なかっただけで、延々と映画界には燻っていた。

そもそも邦画に原作が必要な理由は

時代劇特有の事象の影響

邦画は、浄瑠璃の映画化から始まったと云っても問題ないし、最初はまず時代劇から。見世物小屋の匂いがした当初作品から、文芸作品に映画が進化するのは早かった。
著作権云々の概念は後に回す世界で、時代劇に原作があるのか、という根本的な問題がある。
忠臣蔵には、各種小説や戯曲、歌舞伎の演目と、原作は多岐に渡るが、そもそもの赤穂事件が、大元の原作であるのは、間違いない話になる。では本当の原作者は誰? となるのは自明の理。浅野内匠頭が著作権者だという暴論が成立してしまう。だからまず、原作者を仕立てた。これは映画に限らない話で、著作権法の成立以前の話。
邦画の著作権に関しては、2006年作品『映画監督って何だ!』に詳細が描かれている。ただし監督側からの意見と認識しなければならない。

ひとつの原作から、個々に作成された脚本による映画の成立は、あくまでも『原作者』ではなく、『映画作者』側からの意見になる。

ノベライズの先駆者でもあったゴジラ

1954年作品『ゴジラ』には、原作者が存在する。
原作香山滋の名前はテロップにもあるが、今、ゴジラに原作があると言われて、ピンとくる者は少ない。それも、映画の企画が上がってストーリーも決まってから、脚本制作の叩き台としての依頼。
現在で言う、ノベライズ。小説化の走りとも言えるだろう。
また、空想科学作品に権威を付ける必要があったのかもしれない。そうでなければ、ゲテモノ扱いされる恐れもあったし、実際、新聞論評では、当初はそう扱われた。
また、矢立肇東堂いづみに代表される、権利管理用の架空のペンネームに、この存在は波及する流れになる。
これは映画界が、原作者や原作を、軽んじていたようにも見えるが、そうなってしまった理由、そして原作者の反撃から自滅まで、わかりやすい話があるので、紹介する。その作品は、『鞍馬天狗』


『鞍馬天狗』が映画界に及ぼした原作乖離の影響

大佛次郎が1924年に作り上げた作品でもある『鞍馬天狗』は、同年にはもう、最初の映画化が行われ、1965年まで、のべ60本の作品が制作される。
嵐寛寿郎主演作品は1927年から46本の制作になる。
鞍馬天狗は大人気になり、あっという間に、映画が原作の本数を超えてしまい、映画会社が原作を待たずに制作を開始してしまう。待っていられなくなったのだ。
鞍馬天狗の、「黒い宗十郎頭巾に紋付の黒羽織姿」、「ピストル」等々、嵐寛寿郎が考え出し、映像化し、人気になった。
だが、これを、当の原作者である大佛次郎は、気にくわなかった。
そして時代が下り、諸権利の整備も進んだ1953年に、大佛次郎が反撃に出る。日本文藝家協会を通じ、作者を通さない無断の映画化は中止せよと抗議。
「著作権無視である」
「原作を勝手に書き変えて題名だけ盗んでいる」
「映画の鞍馬天狗は人を斬りすぎて、原作者の意図に反している」

等の理由で非難し、1954年、自分の手でプロダクションを作り、原作者が手掛ける本物の鞍馬天狗として映画が作られたのだが。
結果は、「日本映画史に残る大失敗作」と評され、興行収益も大赤字。映画館の興行主らから、嵐寛寿郎主演作品をと突き上げを食らい、白旗を上げるしかなかった(参考文献・嵐寛寿郎『聞書アラカン一代 - 鞍馬天狗のおじさんは』「天狗、打ち止め」(竹中労、白川書院))。

1980年作品『シャイニング』にも、似たような話があるのは有名だ。

『原作』と『原作者』の考え。
『映画作家』の考え。
売れて人気が出た方が、結果的には勝ちだ。ならお前が作ってみろが、成功しなかったのだ。
この鞍馬天狗案件から、原作者は口を出すなの風潮が、邦画の世界に蔓延したのは間違いなく、金田一の姿格好にしても、映画として映える物が選ばれ、原作からは離れた。もちろん原作者が鷹揚ならば新しい作品の可能性ができるが、大佛次郎のような動きになると、作品そのものが終わるという厳しい現実すら存在した。
原作から借りるのは題名だけという現状が、何十年も続いたが、映画の制作側の考えに変化がないのに、観客の考えが、感性が、変化する。
ネットの普及やSNSの発達で、個の意見を簡単に、述べられるようになった。映画の製作側は、この感性のズレに、気付かなかったし、今でも気付いていない、あるいは気付いていないフリをしている。


感性がズレているのに気付かないと、どんなプロでも失敗する

これは時代に迎合しろという意味ではない。
これで問題ないと思考を停止してしまうのが問題なのだ。確かな実績もあり、次の仕事も決まり、惰性的に仕事をしていると、世間の考えや認識と、表現がズレて行く。
つまり、映画会社や制作陣は、対原作、対原作者ではなく、ひとりひとりが声を上げられる今、『対原作のファン』になっている現状を、今でも認識できていない。だから、実写が失敗するのだ。

原作を読んでいないとキッパリと話し、「過去のシリーズ作品もあえて観ていない。だからどういう内容なのか、全然知らないんです。タイトルだけで映画を作っているので」とさらに言い切った。

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ひと昔前なら、それも笑えたのかもしれないが、原作ファンからすると、こんな失礼千万な話はない。実際、数十年、そうだったのだろう。だが、受け取り側の立場が変わったのだ。
キャラの性別や、年齢設定を変えるだけでも、声を上げられるから、大騒ぎ。尚且つその意見は、まず真っ当だ。
時代背景は時間経過があるから仕方ないという見方はあるが、原作ファンの視線は、相当に厳しい。だが、制作側は、それを理解できない。今まで問題がなかったのに、何故と。
原作通りに作るのなら、自分が制作する必要がないという現実が制作側にも襲い掛かる。笑い話として、映画畑ではないビデオ制作会社が、成人漫画を原作としてビデオを作成する際、それはもう構図から原作通りに見事に作り上げ、高評価を得続けているという現実がある。あえて個性を捨てるのが、高評価につながる時代になりつつある。

最後に総論として

原作を超える映画、というのも存在する。『砂の器』『赤ひげ』『魔界転生』と、原作者自身が、原作よりも良しと評した作品。例外なく、高評価で興行収益も抜群。
早い話、原作を良い意味で超えれば、問題ない。誰も不幸せにならない。非常にわかりやすい話だ。
最近はこれ以外にも、変えてはならない不文律を、時代に合わせるという名目で作品世界そのものを壊すスポンサーも多く存在する。
原作は題名だけで結構という映画人がいる以上、駄作はこれからも、嫌でも生まれ続けるだろう。

(終)

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