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陰キャ極めし、高2の青春

どうも。

すき家で三色チーズ牛丼の特盛温玉付きを注文する系大学生です。

さて、今回は俺の高校時代の陰キャっぷりを書いていこうと思う。高校時代とは言ったが、陰キャっぷりが特に凄惨を極めていたのは高2の頃だ。むしろ高2の時だけだったと言っていい。

だが高2の時の話をするなら、まずは軽く高1の頃の話をしなければならない。

高校1年生

入学式の日、唯一同じ中学から入学した友達が違うクラスになってしまい、俺は落ち込んでいた。周りでは、一部の人間が楽しそうに話していた。友達を作るのが早いのか、同じ中学の人がたまたま同じクラスだったのかはよく分からないが、そんな人たちを見ていると何となく辛かった。入学早々気が滅入った。

(入学式の日に制服のブレザーに付ける校章のバッジが配られるのだが、なかなかそれが付け辛く、針が軽く指に刺さってかなりムカついていた。中退の二文字が頭を過った。)

だが、そんな憂鬱な気分も直ぐに晴れていった。俺の高1の時の担任は保健体育の先生で、初回の保険の授業の時に自己紹介をすることになった。それがきっかけで何人か話せる人が出来た。学校とはかなり閉鎖的なコミュニティである。そういった環境の中で1人で居ることは、自由なことであり尊重されるべきことであるかもしれないが、グループ作りで余ってしまったりイジメの標的にされやすくなったりと、色々と不利な状況であることは間違いない。そのため、ある程度話せる人たちが出来たことは、新しい環境に在る俺に大きな精神的余裕をもたらしてくれた。そして部活見学やら宿泊研修やらを通して、次第に高校生活に慣れていった。

高校1年は、毎日が新しい日々、新しい刺激の連続だった。歳を重ねる度に時間の感覚は短くなっていくものだが、中3の1年よりも高1の1年の方が長く感じた。髪にワックスをつけられることや、ツーブロックが可能になったこと、ベルトの色が黒じゃなくてもよくなったことに高校生になったのだと実感した。女子の先輩には娼婦並みにスカートが短い人がいた。






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ムラっと。ムラっと。







授業では多くの人が当たり前のように居眠りをしていた。中学の時には考えられなかったことだ。「高校ってスゲぇ....」そう思った。今となっては当たり前のことだが、高校には自販機があった。入学当初はそれだけで滅茶苦茶興奮したものだ、学校でカルアップが買えるのだから。また近くのパン屋が学校まで来てパンを販売していた。購買ってやつだ。パンは勿論美味しかったし、パン屋のおっさんがなかなか癖のある横に大きい人だった。まさにパンだけを食べて生きてきたような感じだ。昼休みは皆、自由気ままに過ごしていた。椅子を動かして集まってだべったり、一人スマホゲームに熱中している人もいた。誰かの誕生日には机一杯にプレゼントを置いていた光景もよく覚えている、主に女子勢。俺は数人の仲間とトランプで大富豪をしてはしゃいでいた。放課後は部活でひたすらバレーをした。中学時代は部員が四人しかいなかったため、10近い人数で練習ができるのがたまらなく嬉しかった。なんて素晴らしき高校生活だろう。

話は変わるが、俺の高校はサッカー部が割と強豪で、サッカー部の人達は基本皆スクールカーストの上位層的な存在だった。権力持ってる部活の部員は大体カースト上位層であるのは、中学高校あるあるだ。最初の内は、サッカー部であるだけでモテたことだろう。高校1年時のクラスは、そのサッカー部員がほんの数人しかいなかったため、サッカー部員がクラスの中心といった感じではなかった。不思議な感じだった。どこの学校のどこのクラスでも、いくつかのお友達グループが自然に出来るが、俺のクラスも例に漏れず休み時間は多くの人が各々のお友達グループで過ごしてはいたものの、そのグループに囚われることなく、色々な人達と分け隔てなく仲良くやっているような印象だった。ある程度真面目に勉強しないと受からない高校だったので、最低限のマナーやモラルを持っていた人達が多かったのだろうか。とにかく、平和だった。明らかに中学よりも居心地がよかった。

そんな感じで平和に1年が終わった。卒業してから高校時代はつまらなかったと言う人もいたが、あんな平和な環境にこれ以上何を求めれば気が済むのか。

(隣のクラスに、やたらとスキップをするように歩くメガネの男子生徒がいたんだが、彼は元気にしているだろうか。)

高校2年生

クラスが変わった。

俺はなんとなく感じた、このクラスに俺の居場所は無いと。あくまで俺の感覚だが、クラスにはカーストの極端な上位層しか居なかった。少なくとも俺が仲良くなれそうな人はいなかった。決して他の人たちのせいではない。俺が勝手に苦手意識を持っていたのだ。しかし、何となく分かってもらえるだろうか、会話をする時のリズムというか波長のようなものが合わない人というのはいると思う。俺はそれがカースト上位層、俗に言う陽キャな人たちだった。こうして、高2の学校生活が始まった。

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当時ただでさえ陰キャな俺に、猛烈にやりたいことがあった。勉強だ。

俺は高2の四月にして行きたい大学が決まっていた。そのため、滅茶苦茶に勉強がしたかった。高校二年という青春真っ只中の時期にだ。当然浮く。昼休み、周りの人たちは楽しそうに昼食をとり、はしゃいでいる。そんな中俺は一人







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だ。






ん?証拠を見せろ?
良いだろう。

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これが証拠だ。

(ちなみに、今でも単語の意味はある程度覚えている。translateは翻訳する。humanityで人類だった気がする。concludeは結論づけるとか、締めるみたいな意味だったと思う。)



毎日こんなことをやっていたのだ。みるみる俺の影は薄くなっていっき、陰は濃くなっていった。きっと、裏で俺はこう呼ばれていただろう。






ターゲット







今になって考えてみれば、確かに勉強がしたかったのは間違いないが、あのクラスに仲良くなれそうな人が一人でもいれば、そいつといたことだろう。教室の中はなかなか孤独だったため、俺が気楽にいれたのはせいぜい部室の中だけだった。

今までの人生で学校の中で一人でいることはほとんど無かった。いつも誰かしらと一緒に居た。そのためクラスの中で一人でいることの大変さを知らなかった。何が大変だったかといえば、グループ作りで余ってしまうことだ。学校とはグループを作らされることだらけである。体育の授業なんかは勿論、課外学習(当時は横浜遠足だった)や修学旅行の行動班・部屋決めもあった。そして、その度に取り残された。

下手したらいじめの標的にされるレベルだった。

正にターゲット。

そうは言いつつ、何だかんだでグループが決まるのが学校だ。2年の最初の陰キャの登竜門であった横浜遠足は、なかなか気まづかった。幸い1年の時に同じクラスで少しだけ関わりのあった子が同じグループに居たが、それ以外の人たちは全く関わりが無かった。じゃあ仲良くなればいいじゃん??。その通りだ。でもその通りに行かないのだ。陰キャだから。

特に話すことも無く静かに時間は過ぎていった。自由行動になってからはバレー部の人と一緒に居た(気がする)。本当に何も無かった。てか横浜そのものが何も無かった。



修学旅行。ホテルでは他クラスの部屋に居た。そこで、はしゃいだり、王様ゲームやSwitchでスマブラをやったりしていた。あの時が修学旅行で1番楽しかった。4日間の修学旅行で、グループで行動したのは最終日だけだった。メンバーは横浜遠足とほぼ同じだった。まぁ特に何も無く、ロッテリアで昼飯を食べつつ、時間が過ぎるのを待った。

しょうがないじゃん。陰キャなんだもん。

横浜遠足からなにか成長があったとすれば、気まづさが平気になった事だ。








きまづくったって

いいじゃないか

いんきゃだもの

つかを








話は変わるが、不思議と大学では一人でいることに抵抗は無い。しかし、学校の教室という環境の中では、一人でいるということはたまらなく苦痛だった。恐らく、問題は一人でいることそのものではないのだ。周りがグループを作っている、集団でいるという環境の中で、一人でいることだ。もっと言えば、「周りと違うこと」、それが辛さの原因だったのだ。何を着るか、誰といるか、何をするか、といった様々な事が自由に自分の意志で決められ、そもそも人と違う事が当たり前でさえある大学のような場所では、自分がどのような選択をしようと、それを誰かに咎められたり、自分で一々気にしたりすることなどはそう無いだろう。しかし、学校の教室という閉鎖的なコミュニティでは、自分が何者であるかが制限されてくる(ように感じた)。勿論、誰かが実際にああしろ、こうしろと命令したり、指示をしてくる訳ではない。しかし、見た目や行動など何でもいいが、一時だけでも周りと何かが違えば、そのことに嫌悪感や不安感を感じた。これを読んでいる人も心当たりがないだろうか。

改めて言う、俺は高校二年の時はバリバリ陰キャだった。友達が居なかったから?違う。一人で居たから?違う。周りが昼休みに、はしゃぎ遊んで楽しく過ごすなかで、勉強などつまらぬものに没頭していた。これが陰キャであった所以だ。勉強でなくとも、周りの子たちと何か違う、その状態を「陰キャ」と言うのではないか。陰キャは人に張られるレッテルではなく、状態に張られるレッテルなのだ。周りと違う=「陰キャ」だ。






周りが黒髪の中で、金髪にしている。











陰キャだ。







居酒屋で周りが最初に生を注文する中で、カシオレを頼む。











陰キャだ。







数百人、数千人出場する大会でベスト3として表彰される。











陰キャだ。






日本の男性ミュージシャン、音楽プロデューサー、作詞家、作曲家、編曲家、動画投稿者。本名は前山田 健一。












ヒャダイン。






公道を走っているのは殆ど車なのに、バイクに乗る。











陰キャだ。







色違いのポケモン。











陰キャだ。







女子高生や女子大生が多くを占める中、男1人でタピオカの列に並ぶ(体験談)。











淫キャだ。








これを読んでいる人の中で、自分が陰キャであると悩む人がいるなら、試して欲しい。

それは「周りと同じ」でいることだ。

「周りと違う」が陰キャなら、「周りと同じ」は陽キャである。




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↑陽キャである






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↑陽キャである






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↑陽キャである





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↑妖キャである






ここまで言っといてなんだが

俺達は皆、人間であるという点において例外無く周りと同じなんだよね。日本語を使っているという点においても、殆どの日本人と同じ。それでいて、俺達は名前や顔、性格など様々な要素が周りと違う。1人として、俺達のそれぞれと同じ人間は居ないよね。

つまり、俺達は周りと同じであり、違うんだよねってこと。

「陰キャ」であり「陽キャ」なんだ。

「陰」の性質と「陽」の性質をどちらも持ってる。

またね、1985年にアメリカで発売された楽曲で、著名なアーティストが「USA For Africa」として集結して完成させた「We Are the World」という曲があるんだけど。皆知ってるよね?。有名だよねこの曲。

そんで、その歌詞にね

We are the children

という1文があるんだ。

この文はそのままの意味で、俺達人間は何かの子供なんだっていうことを示してるんだよね。

じゃあ、俺達は何の子供なのか。

そう、日本史をとっていた人なら知っているだろう、平安時代の陰陽師だった「安倍晴明」なんだよね。







つまり、俺達は皆

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なんだよねってこと。

一見、アフリカへのチャリティーソングに見えたWe Are the Worldも本当は、我々の親である陰陽師 安倍晴明を称える歌だったんだよね。

これ、ヤバいよね。

もう80年代にして、パンドラの箱開けられちゃってんだよね。



じゃあ、ちょっとSiriに聞いてみようか。

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ヤヴァいよね。

もうAppleでさえ、この陰陽師の秘密を覆い隠そうとしてるんだよね。

もうとっくに、人類の選別は始まってるんだよねってこと。























この話を信じるかどうかは















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