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フローター  第3話

            「週刊真実」

 
 これは何かあるぞ、何かあるぞ、絶対あるぞ、何かあるぞ……。

 「週刊真実」の編集長、内田義次は音羽通り沿いにある自社を出た後ブツブツつぶやきながら歩いていた。甘い物だ、脳が甘い物を欲してる。内田はいつも何か考え事をする時、この音羽通り沿いにある「群林堂」という和菓子屋の豆大福を歩いて買いに行くことにしていた。

 内田は180センチ110キロという巨漢だ。お腹は幕下の力士に負けないくらいの脂肪がついている。これだけ太っていればそう簡単に脳の糖分が不足するはずないのだが、考え事をする時はいつも会社から約300メートルの距離にある「群林堂」まで歩いて豆大福を買い、それを食べながら歩いて会社に戻るというのが内田の習慣になっている。そうすると自分のデスクの椅子に座る頃には不思議と頭の中で思考とアイデアがまとまっているのだ。

 何かあるぞ、裏に何かあるぞ、大福だ、大福食べて考えよう……。

 ブツブツつぶやきながら歩く内田を横断歩道で信号待ちしているヤクルトレディが不思議そうな顔で見たが、内田はそんなことには全く気付かずブツブツつぶやきながら大股で歩いた。ただでさえ汗っかきなのに、興奮したせいでさらに汗が噴き出してくる。久しぶりに味わう感覚だ。こりゃ思った以上に大きなヤマかもしれない……。

 内田は今年で56歳になる。これまでも多くの政治家や企業のスキャンダルを暴いてきたが、このネタはもしかしたら俺のジャーナリスト人生で一番の大仕事になるかもしれない……。そんな予感がしていた。

 内田が今追っているネタは今や一世を風靡する人気商品、フロートの副作用についての噂だった。フロートを毎日服用していた人間が強風を受け身体が飛ばされるという事件がいくつか起きているらしい。このネタを内田に持ち込んできたのはフリーのジャーナリスト、冴島みどりだった。

 みどりとは長い付き合いだ。6年前、大手テレビ局を退社しフリーになっていたみどりに最初の仕事を与えたのが内田だった。大手のテレビ局に勤めながら政府の記者会見の場に週刊誌やフリーの記者も入れるべきだと主張して記者クラブの仲間から鬱陶しい目で見られている変わり者のオネーちゃんがいるという噂は聞いていた。内田自身も永田町の議員会館に取材に行った時、与党の大物議員にきわどい質問を連発して一悶着起こしているみどりの姿を見かけたことがある。

自身も自身も若い頃大手新聞社から追い出された経験がある内田は、ああ、俺と同じタイプだ、ああいうのは大きな組織では長続きしないだろう……と思っていたが、数年後案の定「あの問題児のオネーちゃん辞めたらしいよ」という噂を耳にして内田の方から仕事の話を持ち掛けた。以来、みどりは自らカメラを持って取材に行き、インタビューもやり、記事も書くフリージャーナリストとして内田が編集長を務める「週刊真実」と付き合いを続けている。

 みどりの根性は相当なもので戦場にも被災地にもどんな取材にも飛んで行き、男顔負けの仕事をこなしてくる。新宿で起きたやくざの抗争を取材した時には、男に路上で襲われそうになったのだが、逆に護身用に持っていたスタンガンで男をやっつけ警察に突き出しちょっとしたニュースとなった。

 そのみどりが先月持ち込んできたのがフロートの副作用のネタだった。フリージャーナリストとしてそこそこ名前が売れてきているみどりのブログに先月あたりから読者から次のような奇妙な事件の報告が複数届いたことがきっかけだった。

(都内のゴミ収集車の作業員です。先日僕の仲間が作業中強風にあおられ身体ごと飛ばされ近くのマンションの壁に全身を強打し重傷を負いました。あれは絶対風で飛ばされたと思うんですが警察にそう言っても信じてもらえなくて困っています)

(埼玉県の高校でサッカー部の顧問をやっている者です。先週部員の一人が学校の周りをランニング中に姿が見えなくなり、みんなで捜索したところ校庭の裏の畑で倒れて意識を失っている状態で見つかりました。すぐに病院に搬送し幸い命には別条なかったのですが、本人はランニング中風に飛ばされたとおかしなことを言っています。警察ではイジメやリンチの可能性を調べているようですが、うちの部員は絶対にそんなことはしないと思います――)

(25歳、OLです。先日静岡県の石廊崎で友達が崖から落ちて意識不明の重体です。4人グループで旅行中、日の出を見ようと訪れていた時のことでした。警察は自殺と判断しましたが絶対にそんなはずはありません。彼女は直前まで楽しそうに話していたんです。それがトイレに行くと言って走って行った数十秒後悲鳴が聞こえ、見上げると彼女の身体が後ろ向きで崖下へ落下していくのが見えました。信じてもらえないかもしれませんが落ちる直前彼女の身体がまるで風で飛ばされたようにフワッと浮き上がったんです。もしかしたら強い力で誰かに投げ飛ばされたのかもしれません。警察は全然信じてくれません――)

 みどりが自分のブログに「最近強風で飛ばされて怪我をするっていう事故が増えているみたいですね、異常気象のせいかな……?」と書き込んだところ「私の周りでも怪我した人がいます」とか「僕の友人も事故にあいました」など日本全国から多数のリプライがあり、ちょっと調べてみるか……と怪我をした方々の家族や友人に話を伺ったところ、事故の被害者に意外な共通点があることが分かった。彼らは皆フロートの常用者――ヘビーユーザーだったのである。

「これはもしかしたらフロートの副作用なのかもしれない」そう言ってみどりがこのネタを内田に持ちかけてきた。みどりがうるさく言うものだから内田も渋々いくらか取材費を渡したものの、本当にそんな副作用があるものだろうか? と大して信じていなかった。

 が、ついさっきのことである。フロートの発明者である平林誠という三橋製薬の研究員が痴漢の容疑で逮捕され三橋製薬を解雇されたというニュースが内田のもとに入ってきた。みどりの報告によればこの平林誠はフロートの副作用を公表するよう上司に訴えて会社側と揉めていたらしい。

 これは何かある――内田は直感した。

 珍しいことが二つ同時に起きる時は、それは偶然ではなく必然のことが多い。何かある……。

 目の前に「群林堂」が見えてきた。時刻は午後2時35分。ここの豆大福は人気商品だ。早い時には午前中で売り切れてしまうこともある。残ってればいいけどなぁ……吹き出す汗をハンカチで拭きながら内田は足を速めた。

「こんにちは、いっらしゃーい、豆大福かな?」
「群林堂」のおばさんが汗をダラダラ流しながら歩いて来る内田を見てニコニコしながら声を掛けてきた。

「ああ、こんちわ、まだある?」
「あるよ、3つだけ」
「やった! その3つ頂戴!」内田はショーケースに残ってる3つの豆大福を指差した。
「はい、どうぞ、540円」

 おばさんから貰った豆大福を店の前でほおばる。よし、これで脳細胞のエネルギーは満タンだ。「群林堂」を背にし、内田は再び会社に向かって歩き出した。
 十分な臨床試験が行われていなかったフロート。見過ごされた副作用。その事実の隠蔽に走る三橋製薬。

 面白い……。

 空を飛べる夢の薬フロート、その裏側を全部覗いてやる。
 音羽通りを歩きながら、豆大福の粉で真っ白になった口で内田はニヤッと笑った。

 
               冴島みどり
 

 監視が付いている。やっぱり何かある。
 みどりはそう確信していた。

 この日みどりが計画していたのは、フロートの発明者であり最近痴漢の容疑で逮捕され三橋製薬を解雇された元研究員、平林誠に会うことだった。

 昨日みどりは平林誠が勤めていた三橋製薬の研究所に足を運びかつての同僚に話を聞いてみた。皆一様に口が重かったが、一番仲が良かった井上という平林誠の後輩が「先輩は確かに巨乳好きでむっつりスケベだったが、あの人が痴漢なんてするはずがない。あの人にそんな度胸なんてない!」と先輩を庇っているのだかいないのだか分からないような言い回しで平林誠の潔白を主張し、彼について色々と話してくれた。

 井上は、平林誠は逮捕される直前に「やばいよやばいよ」と独り言をつぶやきながら何かの研究に没頭していたこと。それが何の研究なのかと井上が聞いてもうわの空だったこと。そしてある日突然、先輩にしては珍しく有給を取って数日間会社を休んだこと。その休みの間に痴漢事件が起きたこと。逮捕されてから2週間以上に渡って平林誠は容疑を否認し続けていたこと――などを話してくれた。

 中央線と多摩モノレールを乗り継いで、みどりは井上から教えてもらった住所、立川市錦町にある平林誠の自宅を訪ねてみた。平林誠のアパートは駅から下水処理場に向かって数百メートル歩いたのどかな住宅街にあった。

 あそこか……。その前にちょっとトイレに寄っておくかと、コンビニに向かって歩いて行くとそのコンビニから当の本人、平林誠がレジ袋を手に提げて出てきた。フロートが発売された直後、平林誠はフロートの発明者として新聞や雑誌、テレビなどにも出ていて顔写真の資料は沢山あったので彼の顔は目に焼き付けていた。

「平林先生!」追って行ってそう声を掛けようとしたところコンビニの前で突っ立っていたスーツ姿の男が平林誠の後をついて行くのが見えた。尾行しているという感じではない。男は平林誠の5メートルくらい後ろを身を隠すこともせず彼のアパートまで堂々とついて行き、アパートの前に止められている白いプリウスの助手席に乗り込んだ。運転席にはもう一人の男が待っていた。

 監視されているのか……?

 いよいよ怪しい。最近フロートの常用者が突風で身体を飛ばされ怪我をするという事故が相次いでいて、これはフロートの副作用によるものではないかという疑念をみどりは強く持つようになっていた。

 フロートの副作用の疑惑、フロートの発明者である平林誠の突然の逮捕、冤罪の可能性、平林誠への監視……。疑惑の匂いがプンプン漂ってくる。

 真実に触れたい、真実に近付きたいという欲望の虫がみどりの中で疼き始めた。「ジャーナリスト魂」なんていう綺麗な表現ではふさわしくない。これは自分の性《さが》なのだろう。みどりはそう理解していた。
 
 みどりは数年前まで大手民放テレビ局の政治部に勤めていた。しかし、入社当初からみどりはテレビの報道姿勢に疑問を持ち続けていた。

 明らかな違和感を持ったのは数年前北陸で大きな地震が発生した時のことである。当時夕方のニュース番組のスタッフだったみどりは地震発生後すぐに現地に飛び、被災者と直に接した。水がほしいというお婆ちゃんに自分が持っていたペットボトルの水をあげ、避難先の体育館で炊き出しの手伝いもした。ボランティアスタッフとして支援に来ていた女子高生は、お母さんが入院していて泣きやまない二歳の男の子を抱っこしてあやしていた。立場を超え、一人一人が自分の出来ることを懸命にやっている姿がそこにはあった。

 しかし取材を終え東京に帰って来ると現地とは全く違う世界があった。番組のディレクターはじめ政治部のスタッフの頭にあったのは永田町の政局だった。みどりが東京に戻った次の日、支持率低迷に苦しんでいた当時の坂本総理大臣がヘリで被災地の視察に行くかもしれないというニュースが飛び込んできた。しかし官邸からは総理が視察に向かうのが今日なのか明日なのか詳しい情報が上がってこない。夕方の放送時間まで残り数時間。その時チーフ・ディレクターがとった手段は、総理が視察に行った場合のVTR=「パターンA」と視察に行かなかった場合のVTR=「パターンB」、両パターンを準備しておくことだった。

「パターンA」は「こんな状況で現地に行っても混乱を招くだけじゃないか」、「どうせまた支持率回復を狙ったパフォーマンスに過ぎないだろ」と新橋のサラリーマンが坂本総理をボロクソに批判するインタビューを詰め込んだVTR。

「パターンB」は「視察に行かないなんて最低よね」、「私だったら一目散に駈けつけるわよ、もー信じられない!」と巣鴨のお婆ちゃんたちが坂本総理をクソミソに貶すインタビューVTRだった。  

 つまり総理がどっちの行動を取っても批判してやろうという意図のみがあって、被災地にとってその視察がプラスなのかどうかという視点は全くないろくでもない報道姿勢だった。その疑問を番組のチーフ・ディレクターにぶつけると、彼はお前は何を言っているんだ? という目でみどりを見た。

「権力者を批判するのが俺たちの役目だろう」、「世間が今一番注目しているのは坂本総理がいつ辞任に追い込まれるかどうかだろう」、「視聴者のニーズに応えるのが俺たちの使命だ」チーフ・ディレクターはそんな理屈を並べたてた。反論するのもバカバカしくなってこの時みどりは会社を辞めてフリーのジャーナリストになることを決心した。

 みどりが知りたいのは真実だった。伝えたいのも真実だった。

 大事な真実というのは大抵の場合みんなが大騒ぎして注目しているのと違う場所にある。マジシャンがこれを見て下さいと大きなゼスチャーで右手をかざしている時にこっそり左手でタネを仕掛けているように。記者生活の中でみどりはそれを確信していた。

 しかしこの国のマスメディアは真実には関心がない。少なくともみどりが勤めていたテレビ局はそうだった。こういう場合はこのパターンです。これはこっちのパターンです。分かりやすい悪者を仕立て上げ叩きまくる。人気者をチヤホヤと祭り上げる。全ての出来事をニュースという名の型に流し込んでレンジで焼いて、はい出来上がり! そんな感じで毎日毎日ニュースを大量生産しベルトコンベアに載せて視聴者のもとに流して行く。そこに疑問を挟む余地は全くない。締め切りに追われ、時間に追われ、ただひたすらニュースという商品を大量生産するのがテレビ局の仕事だった。

 テレビ局を辞め、みどりは自らハンディカメラを持って取材に行き、インタビューをし記事も書くフリージャーナリストになった。給料は大幅に減ったが構わなかった。テレビ局で毎日経験した報道ごっことは全く違う充実感があった。
 
 平林誠の自宅アパートから駅までの道を引き返しながら、みどりは「週刊真実」の内田に電話した。あの太った中年おじさんはなぜか自分の事を気に入ってくれている。フリーになってから最初の仕事をくれたのも内田だった。みどりも内田を父親のように慕っていた。あのおじさんも自分と同じような性《さが》を持っている――出会った時からみどりはそう感じていた。あの太ったおじさんのブヨブヨのお腹を切り裂けば私が私の中に飼っているのと同じ虫が出てくるはずだ。真実に触れたい、真実に近付きたいという欲望の虫が――。

 みどりは内田に平林誠には監視がついていること、監視の男たちが乗っていた白いプリウスのナンバーを伝えその所有者を調べてほしいこと、今日のところは一旦出直すことにしたこと、などを報告した。

 監視の目がある中で、記者である自分が堂々と訪問する訳にはいかない。さあどうしたものか……。突然雷が鳴り始め冷たい風が吹き抜けるのを肌に感じた。

 面白くなってきたじゃないの。

 雷の音に対抗するかのようにパンプスのヒールをカツカツと響かせながらみどりは駅へ向かって歩いた。

 
              小池

 
「しかし世の中にはとんでもないことがあるもんだ……」

 地下鉄有楽町線の車内。ドア近くの手摺りに寄り掛かりながら「週刊真実」の記者である小池は中刷り広告を見てつぶやいた。

 中刷りには「わたしらしい時を刻む」というコピーとともに腕時計をしてにっこりと微笑む人気女優、三栗谷香の姿が映っていた。透明感たっぷりの三栗谷香の微笑み。こんな女と一発出来るなんて……。そんなことを想像していたら股間がムクムクッと膨らんできてしまった。

「えどがわばし、えどがわばし」
 バッグで股間のふくらみを隠しながら小池はホームに降りた。

 つい2時間ほど前のことだ。小池の元にある情報筋から衝撃的な情報が入った。その情報は今や社会現象ともいえる大ブームを起こしている「フロート」と、さっきまで小池の目の前で微笑んでいた三栗谷香に関するものだった。

「3年前、厚労省の事務次官、秋山龍太郎が三橋製薬の社長の三橋から女性アイドルを紹介され性的な接待を受けていた疑惑がある――」男はそう切り出した。

 3年前と言えばちょうど三橋製薬から厚生労働省にフロートの承認申請が出された時期である。国民全体がフロートの発売を望んでいたとはいえ、あまりに早いスピード承認に対しては当時から問題視する声もあった。その裏に厚労省トップに対する性接待があったとすれば……これは超ド級のスキャンダルだ。

 男によると、三橋製薬は自社の製品のテレビCMを制作する際、社長の三橋が個人的に親しい桑名彰浩という人物が代表を務めるスターロード・プロダクションのタレントを起用するケースが多いらしい。スターロード・プロダクションの桑名彰浩――この男に関しての黒い噂は業界でも有名だ。八王子の暴走族出身の桑名は、同じ暴走族の先輩で役者として成功した曽根崎龍二の付き人としてキャリアをスタートさせ20年前、35歳の時に独立しスターロードプロダクションを立ち上げた。

 当初弱小プロダクションに過ぎなかったスターロードが今や日本を代表するほどの芸能プロダクションになった背景には、所属する女性タレント、モデルの卵たちによるテレビ局幹部への性接待が行われていたからだという噂は小池も耳にしたことがある。しかし驚いたのは、いまや日本を代表する人気女優・三栗谷香までもが、売れていない頃にこの性接待を行っていたということだ。

 情報筋の男によると三橋製薬の社長、三橋はフロートの承認を得る為にこの桑名に頼んでスターロードの複数の若手女優やモデルに厚労省のトップ、秋山龍太郎そして厚労省の幹部たちに夜の世話をさせた。その中の一人が当時はまだ世間一般的に名が知られていなかった三栗谷香だったというのである。三栗谷香は、その後めきめきと頭角を現し、来年の大河ドラマでは主役の細川ガラシャを演じることが決まっていて今や日本の若手女優の中では断トツの人気を誇る清純派女優である。

 清純派で売っている三栗谷香が官僚相手に性接待をしていた過去がある……、しかもその相手が厚労省のトップ、事務次官……、そしてその見返りが「フロート」のスピード承認……これはもう前代未聞、超ウルトラ級のスキャンダルだ。

 東京メトロ江戸川橋駅の長く細い通路を抜けて小池は地上出口へと向かう階段を上った。

このネタを報告したら内田さんどんな顔するかな……?

 編集長の内田の太った顔を思い浮かべた。興奮してまた「糖分が足りない」とか言ってあの巨体を揺らして大福を買いに行くのかもしれない。その姿を想像すると笑えてきた。

 トントントン。二段飛ばしで階段を上り地上出口を出ると頬にポツリと大きな雨粒が落ちてきた。

 うん? 雨か……? 

 見上げると空がどんより曇っていた。さっきまであんなに晴れていたのに分からないもんだな……。会社まではここから100メートルほどの距離だ。急ごう。降られないうちに帰らなきゃ。小池はバッグを肩に担ぎ音羽通りの歩道を走り出した。

 ゴロゴロー、ゴロゴロー、遠くから土砂降りの雨を予感させる雷の音が聞こえきた。

 
              ビル・マクリー
 

 朝七時半。ホテルでの朝食を終えビル・マクリーは赤坂紀尾井町の雑居ビルにあるオフィスに向かって歩いていた。

 ホテルから数百メートルという短い距離だが食後にこの坂道を歩くのがいい運動になる。オフィスは古びた五階建てのビルの三階にあった。一階はそば屋、二階は歯医者。誰もこのオフィスが日本の政界、財界を揺るがしてきた数々のスキャンダルの発信地であるとは思いもしないだろう。一台のデスクとソファとテレビしかないこの殺風景なオフィスがCIAのエージェント、マクリーの仕事場だった。

 オフィスに着くなりマクリ―はテレビをつけた。ヤンキースの試合がちょうど始まったところだ。危ない危ない。危うくプレイボールを見逃すところだった。プレイボールの瞬間を見逃すとなんだかその日一日のリズムが狂う気がする。今日はいい一日になりそうだ。さあ、こちらもプレイボールといくか。

 マクリーは「Fプロジェクト」と名付けられた今後のアメリカの行く末を左右する重要なプロジェクトの発案者であり、その司令塔の役割を任されていた。約5年という長期にわたるこのビックプロジェクトもそろそろ仕上げの段階に入っている。ここまでは全て順調にいっていた。

 ヤンキースの試合の実況に耳を傾けながらソファに腰掛けiPadに送られてきた協力者たちからのメールに目を通す。全て順調な経過を伝えるものだったが、一つだけKからの報告が遅れ気味なのが気になった。しかし適切な対処さえ怠らなければ大した問題にはならないだろう。

「ベースヒッツ!」実況アナウンサーが叫ぶ。ヤンキースの先頭打者が塁に出た。やはり今日はラッキーな一日になりそうだ。ヤンキースは今年も順調に首位を快走している。地区優勝を決める頃には「Fプロジェクト」はすでに終了しているだろう。そしたら暫く長い休暇を取るつもりだ。ビールとポップコーンを手にヤンキースタジアムでプレーオフを観戦している自分の姿を想像した。

 いい気分だ。マクリ―は電話をとりKの番号をタッチした。
 

              フリーター
 
 東京にもこんなのどかな空があったんだなぁ……。

 東京日野市の多摩川沿いにある公園。8月は暑い日が続いていたが9月に入って大分暑さがおさまってきた。誠は公園の隅にあるベンチに寝そべりながら大きな青い空を眺めていた。

 白熊のような形をした雲がゆっくり流れて行く。小さな男の子が白い蝶々を追い掛けて誠の横をチョコチョコと走り過ぎて行った。大きな野球場では平日の昼間だというのに誠と同じ年くらいのいい大人たちが草野球をやっている。

 一月前、誠は三橋製薬を解雇された。
 解雇された割には退職金は6千万円と言う破格の金額だった。ただし一括ではなく分割で毎月30万円が20年に渡って支給されるらしい。そんな退職金があるのかと疑問に思ったが、もう細かいことは何も考えたくない気分になっていたので三橋製薬の顧問弁護士たちが持ってきた書類に彼らの言う通りサインした。その際彼らは「こちらの不利になることさえしなければ悪いようにはしないから」というようなことを言っていた。多分また誠がフロートの副作用の事実をマスコミに暴露することを警戒しているのだろう。6千万の退職金は口止め料とイコールと考えてよかった。

 が、誠にとってはもうどうでもいいことだった。全てが面倒臭くなってしまったのだ。何もかもが……。何もしたくなかったし、何も考えたくなかった……。

 こうして誠は朝起きてテレビを見て、午後になるとフラフラとネットカフェか図書館に行き暇をつぶすだけの自由人――フリーターになった……。

 最近はこの川沿いの公園が気に入っている。草野球チームのキャッチャーが「しまっていこうぜー」と声を出す。フッ、まったくしまっていないのがここにいるけどな……そう思うと笑えてきた。

 ベンチの上で寝返りをうつ。野球場の向こうの空には今日もまた学校帰りの高校生だろうか、10人ほどのフローターが空にプカプカと浮きながら騒いでいる。あいつら、そのうち風に飛ばされて死んじゃうのかな……まあ、俺には関係ねーか、たとえフロートの副作用で大きな事件が起きたって……世の中がどうなったって。もう何の関係もない……。俺はやるべきことはやったんだ……。

 草むらになんだか名前の分からない白い小さな綺麗な花が咲いていた。この花は美しく咲いてやろうとか、花としての一生に何か意味を見出しているだろうか? そんなことはない。何となく生きて、何となく咲いているだけだろう。それで十分だ。

 ただ生きてるだけで素晴らしい。それでいいだろ。それだけで。
 そう思っていた。あの女に会うまでは……。
 
「平林誠先生ですね」
 いつものように公園を散歩した後マクドナルドでチーズバーガーのセットを食べていると隣の席から声がした。誰かと思い隣に顔を向けると、
「こっちを見ないで!」隣の席に座っている女が言った。

「あなた監視されてるでしょ、三橋製薬に」女が続けた。
 正面の壁の鏡を見ると隣の席で雑誌を読んでいる女の顔が見えた。ジーンズにTシャツというラフな出で立ちの30歳くらいの女だ。

 自分に三橋製薬の監視が付けられているのはもちろん知っていた。毎日誠のアパートの前には白いプリウスが止められていてそこから2人の男が誠の部屋の様子を伺い、コンビニに行くのにも、ネットカフェに行くのにも誠の後をついてきた。彼らが三橋製薬の社員なのか三橋製薬が探偵事務所かどこかで雇った人物なのかは知らないが、この不景気の時代に2人分の人件費を誠の監視のためだけに使うとはフロートのヒットで三橋製薬はそれだけ儲かっているのか、もしくはフロートの副作用が明るみに出るリスクを考えればそれぐらいの出費は安いものだと考えているからなのか、おそらくその両方なのだろう。今日も御多分にもれずいつもの二人組が誠の散歩にくっついてきた。今その2人は店の駐車場に停めた車の中で退屈そうにストローをくわえてこっちを見ている。

「そのままポテトを食べながら私の話を聞いて」女の声に誠は小さく頷いた。
「はじめまして、ジャーナリストの冴島みどりです。実は今私、フロートの副作用の噂を調べています。最近フロートの常用者が風に飛ばされて怪我をするっていう事故が頻発しているの。それでそれらの事故の真相を調べている真最中にフロートの発明者であるあなたが痴漢の容疑で捕まった。これは裏に何かあるんじゃないかと思って……ぜひ話を聞かせてもらえないかしら?」

「君は新聞記者か?」
「いえ、フリーのジャーナリストよ」
 なんだかまたややこしいことになってきたな……そう思いながら誠は残っていたスプライトをズズッと啜った。
「単刀直入に聞きます。あるんですよね? フロートには副作用が」
 女の問いには答えず、ほとんど氷だけになったコップをストローで啜りながら店内を見渡した。

 窓際の席では幼稚園児を連れたママ友たちのグループが楽しそうにお茶していて、時々「ケンちゃん走っちゃダメ!」などと子供を注意する声が聞こえる。さっき前を通った時にはお楽しみ会で子供に着せる衣装の事を話し合っていた。なんてのどかな風景なんだろう。いつまでもこののどかな雰囲気にどっぷり浸かっていたかった。

 ついこの間誠が身を置いた立川署の留置場の雰囲気とは大違いだ。留置場では見るからにヤクザですというオッサンや、友達を刺して死なせたという目の据わった20代の若者、わけの分からない日本語を話す謎のパキスタン人らと一緒に時を過ごした。留置場の中というのは凶悪犯ほど序列が高くなる空気があって中央線で痴漢をしたという誠は自然と一番下のポジションに収まり、ヤクザのおっさんにいじめられ、20代の若者からは軽蔑の眼で見られ、パキスタン人からは「あんたスケベねー、スケベねー」と何回も言われた。もうあんな思いは二度としたくない。

 小中高とずっと勉強の出来る優等生で、一流の大学を出て一流企業の三橋製薬に就職し、順風満帆に何の波乱もない人生を過ごしてきた誠にとってこの一カ月で体験したことは刺激が強すぎた。痴漢という濡れ衣を着せられたことでプライドもズタズタにされた。両親に顔を合わせるのが辛かった。もう田舎には帰れない。

「平林さんとこの息子さん東京で痴漢して捕まったらしいわよ……」そういう噂は田舎ではあっという間に広まる。親戚にも会いたくない。保釈され自宅のアパートに戻ってからも、大家さんから「出来ることなら出て行ってくれれば有難い」というようなことをやんわりとほのめかされ、いつも挨拶してくれていた近所のお婆さんは誠の顔を見るなり家に駆け込み雨戸を閉めた。

 もうあんな思いはしたくない……。
 くわえていたストローを口から離し誠はゆっくり喋り出した。

「確かにフロートには副作用があるよ。俺はそれを国民に知らせなきゃって思ってた。でもね……もう疲れたんだよね、俺、この件に関しては。取材なら三橋製薬を当たってくれないか」
「でもこのまま放置したら大きな被害が出る可能性があるんでしょ?」
「……」
「それを何もしないでただ見ているだけでいいの?」

 カチンときて思わず女を睨んだ。初対面なのにこの女……失礼な奴だ。「見ているだけで」とこの女は言った。見ているだけ? 冗談じゃない。

「見ているだけってあんたは言うけどね、俺だってね、何軒もマスコミを回ったよ。でもどこも相手にしてくれなかった。どこもね。あんたらマスコミは普段は偉そうに人の事批判するくせに大事なスポンサーのスキャンダルに関しては見て見ぬふりじゃないか。正義面しやがって。おかげでこっちはブタ箱に入れられたんだ、偉そうなこと言う前に20日間のブタ箱生活経験してみろって言いたいね、あんたらマスコミたちには!」

 言ってやった。胸の奥につかえていた不満をぶちまけてやった。

 どうだこの野郎、俺の怒りを思い知ったか。そんな満足感に浸ってフライドポテトに手を伸ばした時、予想外の反撃が返ってきた。

「なに言っちゃってんのよ、マスコミ、マスコミって、全部マスコミの一言でひとくくりにしないでよね。一緒にしないで欲しいの! 記者クラブ制度のぬるま湯にどっぷり浸かったあいつらなんかと! あなたマスコミを回ったって言ったけど、夕刊紙とか週刊誌とかには行ったの?」
「……?」
「ホラホラホラ! そういうとこが勉強ばっかしてきたガリベンさんの限界よね。権威主義的って言うかさ、ジャーナリスト、イコール大新聞、大テレビ局としか思ってないんでしょ」女がまくし立てた。

 なぜ俺が怒られなきゃいけないんだ……? 予想外の反撃に誠はポテトに手を伸ばしたままの状態で、コーナーに追い詰められたボクサーのように女からの攻撃を受け続けた。

「ブタ箱入ったくらいが何だって言うのよ、別に子供や奥さんがいる訳じゃないんでしょ。いくらでもやり直せるじゃない。戦場に取材行ってみなさいよ、私なんか目の前で足が吹っ飛んだり手が吹っ飛んだりしちゃった人を目の前で何人も見てきたわ、それでもめげずに明るく一生懸命生きてる人がいるのよ」
「そう言うけどあんたね――」

 何とか反論してやろうと、そう言いかけたところで言葉を止めた。

 幼稚園児の女の子がキョトンとした目で自分たちを見ていた。同じ席ではなく隣同志の席に座った大人たちが目も合わさずにケンカしている様は幼稚園児には異様に映ったことだろう。なんでもないんだよ―、という感じで必死で笑顔を作ってみたがその笑顔が引きつっていたのかもしれない。女の子は一目散でママのところへ走って行った。

 しばらく沈黙が続いた。女の方も熱くなり過ぎたことを反省しているようだ。幸い駐車場にいる三橋製薬の奴らには気付かれていないようだった。

「ママ―、ブタ箱ってなーに?」窓際の席から女の子の声が聞こえてきた。そろそろ潮時だと思ったのか、女は荷物を片付けながら言った。

「ちょっとした勇気で世界が変わることってあるのよ。一人の人間のちょっとした決断や行動がきっかけで世界がガタガタと変わっていくことが。世界中の人が味方してくれることなんてありえない。けど……世の中には必ずあなたを応援してくれる人がいるわ」
「……」
「あなたも一度は戦おうと決めたんでしょ。その勇気をもう一度起こしてみて、私は応援するから。仲間もいるわ」

 女が席を立つ。
「戦う気持ちがあるんだったら連絡して」そう言って女は去って行った。

 誠のテーブルの上、フライドポテトの横に「フリージャーナリスト 冴島みどり」と書かれた名刺が残されていた。

                月

 まったく何て失礼な女なんだ……。そうつぶやきながら誠は自転車をこいだ。

 マクドナルドで冴島みどりというジャーナリストとひと悶着あった後、家に帰ったがなんだか気分がむしゃくしゃして、こういう時はでっかい風呂に入ってリフレッシュするに限る、そう思って多摩川沿いにある温泉施設に行くことにした。

 あの冴島みどりって女、「ブタ箱に入ったくらいが何よ」なんて言いやがった。ヤクザのおっさんにいじめられ、謎のパキスタン人から片言の日本語で「あんたスケベねー、スケベねー」と言われる屈辱を味わってみろ! と言い返してやりたかったけど言えなかった。そのフラストレーションが心の中で悶々としていた。

 温泉施設の駐輪場に滑り込み、ちくしょーという思いを込めて自転車のスタンドをガンと蹴った。この温泉にはサウナも岩盤浴もあって、休憩所には沢山マンガが置いてあって、レストランもあって隣には大きなスーパーもあって誠のように暇を持て余している人間には最高の場所で最近は週に二度は来ている。

 温泉施設の入り口につながるエレベーターのボタンを押す時チラッと横を見ると駐車場に白いプリウスが駐車スペースを探しているのが見えた。ご苦労なことだ。いつも不動産屋のようにぴっちりネクタイを締めた監視の2人組は誠がここへ来る時徐行運転で誠の後を尾いて来て、誠が温泉から出て来るまで車の中で待っている。一度「一緒にどうですか?」と声を掛けたことがあるのだが、2人とも「いや」と首を振るだけだった。

 ああー。

 露天風呂に首までつかって誠は小さく声を出した。やっぱり温泉はいい。特にここの温泉は多摩川沿いにあって露天風呂から川と夕焼け空と富士山が見える最高の景色だ。30を超えてから気付いたのだが、くよくよ悩んだり精神的に落ち込んだりする時は大体身体が疲れていることが多い。こうやって自転車をこぐという軽い運動をして景色のいい露天風呂につかる、風呂から出たら美味しいビールと食事を食べる。そうやって身体をケアすることが気分をポジティブにする。週に2回も3回もこんなことが出来る自分は最高に幸せじゃないか……。そんなことを思っていると――

「先輩久しぶりですね」と横から声がした。

 振り向くと井上がいた。
「先輩よくここ来るって行ってたから僕も仕事帰りにちょくちょく来てたんですよ、もしかしたら会えるかなぁって思って」
 色白で、なで肩で、「理系男子代表」みたいな貧弱な体をした井上がニッコリ笑った。
 
「そうですか、あの女が来ましたか……」
 風呂を出て温泉施設内にある食事処で井上と久しぶりに酒を飲んだ。

「お前のとこにも来たのか?」
「ええ、来ました。先輩のこといろいろ聞いていきました」
「で、お前なんて応えたんだ?」
「僕はちゃんと先輩のこと弁護しておきましたよ、先輩は確かに巨乳好きでむっつりスケベだけど、あの人が痴漢なんてするはずがない。あの人にそんな度胸なんてないって言ってやりましたよ」
「なんだよお前それ俺のことディスってるだけじゃねーか」
「ああ、確かにそうっすね」

 そう言って井上はケラケラ笑ってジョッキのビールをグイッと飲んだ。

 面白い奴だ。警察から釈放されて以来、会社の人間に会うのは初めてだった。やっぱり気の置けない仲間はいいものだ。ビールを飲みながら誠は自分が逮捕された時のことや留置場で謎のパキスタン人から片言の日本語で「あんたスケベねー、スケベねー」と言われた話をすると、井上は食べていたうどんを鼻から出して爆笑した。あれだけ屈辱に感じたつらい記憶がビールの泡と一緒にはじけて薄まっていくように感じられた。

「先輩、でもあの冴島みどりって人ね、なかなか凄い人ですよ……」
「え?」
「僕ちょっと調べてみたんですよ」
少し酔っぱらって顔が赤くなってきた井上がそう言ってバッグの中からタブレットパソコンを取り出し指でフリックとクリックを繰り返し出てきた画面を誠に見せた。

 せっかく久しぶりにいい気分で飲んでたのに嫌なこと思い出させんなよ……と思いながらも誠は井上がツンツンと突き出してくるタブレットを受け取った。画面にはウィキペディアに掲載されている冴島みどりのプロフィールが映し出されていた。
 
「冴島みどり、フリージャーナリスト。〇×大学政治経済学部卒業後、汐留テレビ入社、報道局政治部に所属し記者として国会を取材する。しかし次第に「批判ありきの局の報道姿勢に疑問を感じるようになった」として退社。その後自らハンディカメラを持って取材に行き、インタビューをして記事も書くフリージャーナリストになる」

「先輩その下、もっと下読んでください」と井上が画面をスクロールした。
 
 シリア内戦を取材中ダマスカスの市場で自爆テロに巻き込まれ左腕を失う大ケガをするも一命をとりとめる――
 
 マクドナルドで会った時、彼女は「ブタ箱入ったくらいがなんだっていうんだ」、「いくらでもやり直せる」と誠に向かって言った。「戦場に取材行ってみなさいよ、目の前で足が吹っ飛んだり手が吹っ飛んだりした人を目の前で何人も見てきた。それでもめげずに明るく懸命生きている人がいる」そうも言った。やってもいない痴漢の罪をきせられ傷心している自分に対してなんてデリカシーの無い言葉を浴びせる奴なんだと思ってあの時はカチンときたが、この冴島みどりのプロフィールを見て納得させられた。

 どうりで……言葉に力があるわけだ。冴島みどりの鋭い視線が蘇ってきた。

 そりゃ戦場で自爆テロにあって腕を吹っ飛ばされるのに比べたらブタ箱での20日間なんてパッケージツアーみたいなものだろう。ジョッキのビールが苦く感じた。黙ってタブレットを井上に返すと、「先輩……彼女、先輩に何お願いしたんですか?」とレモンサワーの入ったジョッキを片手に井上が聞いてきた。

「フロートの副作用について話してくれって、一緒に戦って欲しいって言われたよ」そう言うと井上は顔をしかめ、
「そんな戦って欲しいとか言われてもねー、きついっすよねー……先輩だって戦おうとして、戦って……それで、それで先輩ハメられて……捕まっちゃった訳だし……」

 井上はあんまり酒が強い方じゃない。ビールの中ジョッキ一杯とレモンサワーを半分ほど飲んだ時点でもう目が座っている。
「でも、先輩、僕は味方ですからね、先輩の……先輩がこれから会社と戦おうと、このままおとなしく暮らそうと、味方ですから……」
「おう、ありがとな」と応えると、井上はレモンサワーのジョッキをドンと机に置いて首を振った。

「いや、先輩、違うんすよ、ありがとうじゃないんすよ、ありがとうじゃないんす……俺、悔しいっすよ、先輩、このままじゃ良くないじゃないですか、一つも悪いことしてないのに」

 そう言うと井上は残ってたレモンサワーをぐびぐびとあおり始めた。これはまずいパターンだ……。誠は思った。
 昔立川の居酒屋で井上と一緒に飲んだ時、井上は飲み過ぎて酔っぱらって立川駅近くの道路でうつ伏せになって「北島康介!」と言って延々と30分近くエア平泳ぎをしたことがある。

「分かったよ、井上、分かったから、もうそんなに飲むなよ」誠が心配になってそう言うと井上は、
「分かってないっす、先輩、俺はホントにね、ホントに先輩の、先輩の味方なんすよー」と言って突然周りの客が振り返るくらい大きな声で泣き出した。

 ついさっきは鼻からうどんを出して笑ってた奴が今度は大泣きかよ……。井上の感情の起伏の激しさに呆れながらも、こんな自分のためにこんなに一生懸命泣いてくれる井上の姿が嬉しかった。ついこの間まで世の中全体を敵に回したような気分でいたのに、自分にも味方がいたんだ……。そう思えたことが嬉しかった。

 ビール一杯とレモンサワー一杯でへべれけになった井上ともう一度風呂に入り、井上にポカリスエットを飲ませしっかり水分補給をさせてから一緒に着替えて温泉施設を出た。仕事帰りにここへ寄ったという井上は白いワイシャツのボタンを胸まで開け、タオルでしきりと汗を拭いていた。

「先輩すいませんね、何か先輩を励まそうと思ったのに、僕が介抱されちゃって」
「お前の介抱は慣れてるよ、今日はまだましな方だ」そう言うと井上は照れ臭そうに笑った。

 駐輪場には主人の帰りを待ちわびた誠の自転車がぽつんと停まっていた。
「先輩、自転車ですか?」
「ああ、お前は?」
「僕はバスで、でもその前にスーパーで買い物してから帰ります」
「そっか、じゃあ、またな」
「先輩、ここ来る時はラインくださいよ、またパキスタン人の話聞かせて下さい」そう言って井上はニコッと笑った。

「うるせーな、早く行けよ!」
 そう言うと井上は何も言わずニコッと笑ってスーパーの入口へ向かって走って行った。

 痴漢の容疑で捕まった先輩に対しても全く以前と変わらない態度で接してくれる……なんていい奴なんだろう……。停めた時とは一八〇度違う爽快な気分で自転車に跨ると背中から、
「先輩!」という声が聞こえ、振り向くとニヤニヤしながら井上がダッシュで戻って来た。

 なんだよ、まだ何かあんのかよ? と思っていると、
「先輩、月、月!」と井上が夜空を指差した。
 見上げてみると南の空に綺麗な半月が浮かんでいた。

「先輩、ツキ見放してないですよ」
「あ?」
「うちの婆ちゃんがよく言ってたんです。綺麗な月が見えた時は自分にツキがあるんだって、そう思いなさいって」
「ふーん」
そう言って誠は自転車に跨ったまましばらく井上と並んで月を眺めた。

「まあ、単なる語呂合わせですけどね、でもそう思ってると結構心が救われるんですよ」
「井上……ありがとな……」と言うと、井上は小さく頷いて、またスーパーへ向かって駆けて行った。

 井上がスーパーに入るまで見届けた後、誠はタン! と自転車のペダルを踏み込んで温泉施設の駐車場を抜け道路に出た。勢いよく自転車を立ちこぎでこぎ出す。自転車が加速する。ここへ来る時のむしゃくしゃした気分はすっかり消えていた。

 目の前に赤信号が見えてブレーキを握り自転車を停止する。すると、後ろから監視の二人組が乗った白いプリウスがやって来て誠の横に停まった。仕事とはいえこいつらも大変だな。そう思った。助手席の奴はちょうど井上と同じくらいの年齢だ。

「先輩、月、月!」と言って走って来た井上の顔が浮かんできて、誠はもう一度空を見上げた。赤信号の上に綺麗な半月が浮かんでいた。

 ツキか……。月を見ながらつぶやく。

 信号が青に変わる。
「よし!」と再び誠はペダルを強く踏み込んだ。

               握手

 
 その日、誠はいつものようにフラフラと公園を散歩した後マクドナルドに入った。ランチタイムが過ぎた店内は閑散としていて幼稚園児を連れたママ友たちのグループがいるだけだった。いつものごとくのどかな風景だ。注文したチーズバーガーのバリューセットをトレーに載せて席に着いた。これから自分はこののどかな風景にサヨナラを告げようとしている。

 駐車場の白のプリウスの中には相変わらず三橋製薬の監視の2人組がいる。それを確認して誠は席を立ちトイレの方向へ向かった。トイレには入らずそのまま通路を直進し駐車場へ出る裏口のドアを少し開け顔をのぞかせて外の様子を確認した。大丈夫。白のプリウスからは死角になっている。

 さあ、行くか。ドアを開け店から出てゆっくりドアを閉めようとした時視線を感じた。店の中、通路の向こうから女の子がキョトンとした顔でこちらを向いている。この間会った女の子かもしれない。シ―っと口に指を当てて微笑むと女の子もシ―っと口に指を当てて笑った。手を振ると向うも手を振ってきた。女の子の口が「バイバイ」と動くのを見ながら駐車場に歩き出した。のどかな風景ともバイバイだ。

 約束通りの位置に止まっていた青のステップワゴンの後部座席に乗り込んだ。
「いらっしゃいませ」運転席の冴島みどりが言った。
「マックの店員かよ」と誠が突っ込むとみどりがニコッと笑った。
「誰に手振ってたの?」
「ガールフレンド」
「あら、羨ましい……」
 もう一度ニコッと笑ってみどりは車を発進させた。

 470円のバリューセットと引き換えに監視からの逃亡に成功だ。

 あの日後輩の井上と一緒に温泉施設の食事処でビールを飲んだ後、誠は家に帰って窓から月を見ながらみどりに電話して取材に協力すると話した。

 「一緒に戦いましょう」みどりはそう言って、誠も「はい」と応えた。戦うことを決意した――そういう固い決意みたいなのとはちょっと違う。留置所でパキスタン人に「あんたスケベね」と言われた屈辱的な出来事も、この前井上に話しているうちになんだか笑い話になった。井上はうどんを鼻から出すほど笑ってくれた。だったらこれから起きる出来事もいつか笑い話になるんじゃないか……、それならより面白そうなことをやってやろう、夜空に輝く半月を見ながらそう思えたのだ。

 車は国立インターから中央高速に乗った。左手に競馬場が見える。
 雲ひとつない、いい天気だ。
 ハンドルを持つ冴島みどりの左手を見つめた。

「大丈夫よ、義手でもちゃんと運転出来るから」誠の視線に気付いたみどりが言った。
「これよく出来てるのよ。ホラ、指もちゃんと動かせるし、靴紐だって結べるの。今じゃ完全に自分の一部。元の自分の手と同じぐらい愛着があるわ」そう言ってみどりは左手を振って見せた。

「強いんだな、冴島さんは」
「みどり、でいいわ」
「?」
「私堅苦しいの嫌いだから、み・ど・り、仕事仲間はみんなそう呼ぶから」
「ああ」
「その代わり私も誠さんでいい?」
「あ、ああ」

 みどりが前を向いたまま左手を後部座席に差し伸べてきて、誠は両手でその手を受け止め握手した。ルームミラーにみどりの笑顔が映っていた。

#創作大賞2024

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