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サン=テグジュペリ「夜間飛行」を読んで

 かねてから敬愛する方との、ある実務的なやり取りの機会に、たまたまこの作品が話題になりました。一般的には、サン=テグジュペリといえば「星の王子さま」だと思いますが、以前から他の作品にも関心を惹かれていました。しかし、手に取る機会を失していました。今回この機縁に、この作品を読んでみました。

 調べてみると3つの翻訳がありました。最初にパラパラとめくって、堀口大学の翻訳(新潮社)が一番と思って読み始めたのですが、その後、分かりにくい日本語の部分がくるたびに、比較しながら読んでいたところ、一番新しい翻訳である、二木麻里さんの翻訳(光文社)が最も分かりやすく、日本語も自然だと気がつきました。基本的に、この光文社版で読み進めました。

 それにしても、即物的、具象的な記述の部分はさておき、抽象的、哲学的、詩的な部分になると、翻訳が全く異なる(ように感じる)箇所が多く、そもそも、別の解釈をしているように感じることがしばしばあり、驚き、戸惑いました。それだけ、オリジナルのフランス語文章が、高尚というのか詩的というのか、心理的・情緒的というのか、きっと多角的に解釈できるような表現になっているのだろうと、高まる関心とともに読みました。

 以前にも、カミュの「ペスト」を読むときに、コロナ禍に入ってから出版された岩波文庫の新訳と、長い歴史のある旧訳とを比較して、明らかに優れている(わかりやすく、日本語の質も高い)と判断した新訳の方で読みましたが、そのときには、文体の癖やら、表現方法の趣味のような差を感じただけだったことを考えても、この「夜間飛行」の複数の翻訳に見られる違いは大いに気になりました。

ふたつの例をあげてみます。

1)第四章の最後;部下たちをみるリヴィエールの内心

「苦悩をも引きずっていく強い生活に向かって彼らを押しやらねばいけないのだ。これだけが意義のある生活だ」(堀口大学)

「力強い生活へと彼らを押しやらねばならない。苦しみや歓びはつきものだが、価値があるのはそういう生活だ。」(山崎庸一郎)

「苦しみと喜びがともに待つ、強い生にむけて追い込んでやらねばだめだ。それ以外に生きるに値する人生はない。」(二木麻里)

原文:

Il faut les pousser, pensait-il, vers une vie forte qui entraine des souffrances et des joies, mais qui seule compte.

2)9章の最後;リヴィエールの夢想・・・自分の部下に対する厳格な態度を、"心臓がどくどくと脈打って苦しくなるなか"、悩みながらも正当化しようと考えをまとめる

「人生というやつには矛盾が多いので、やれるようにしていくよりしようのないものだ。ただ、永久に生き、創造し、自分の滅びやすい肉体を・・・」(堀口大学)

「生命というものはひどく矛盾したものだから、生命が相手の場合は、どうにか切り抜けてゆくより仕方がない。だが永続し、想像し、滅びる己の肉体を交換して・・・」(山崎庸一郎)

「生はあまりにも矛盾に満ちている。およそ生きることに関する限り、何とか折り合いをつけて努力していくことしかできないのだ・・・。命はそれでも創られていく。滅びていく体と引き換えに・・・」(二木麻里)

原文:

La vie se contredit tant, on se débrouille comme on peut avec la vie…  Mais durer, mais créer, échanger son corps périssable…

 さて、翻訳の違いはさておき、この作品は、作者の二作目で、第二次世界大戦に入る直前の若い時代の作品ということですが、瑞々しい感受性が伝わってくる一方、何というかずいぶん老成したような人間観察力も溢れているように感じます。それ故に、この世界や人生というものが見えすぎてしまった人間の疲弊した精神、逃避的な精神のようなものまで感じてしまいます。

 そう感じているうちに、やはり「星の王子さま」を思い出してしまいました。子どもに語りかけるような寓話的なメルヘンは、詩的で平易なフランス語で書き綴られているように思います。一方、「夜間飛行」では、使命感や義務感から逃れられない緊張感に満ちた日々の中で、身近な人たちへの愛情や思いやりも大切にしながら生きている人々が描かれていますが、高尚なのか難解なのか、時に具体的にイメージするのが難しいような表現も見られます。

本文から:

「ペルラン(ペルーからの飛行士)は、日の光のもとにかいまみた世界の真価を誰よりもよく理解していて、世俗的な賛嘆を深い侮蔑とともにしりぞける気高さをそなえていた」

「音楽家が不眠で美しい曲を書くのなら、それは美しい不眠というものだ」

「汝自身のうちにのみ追い求めるものは滅びる」

「貧しい子供に貸し出された玩具のように、夫の愛はごく短い間、妻に貸し与えられるだけで取り上げられる」

「敗北は、おそらく来るべき真の勝利に結びついていくための約束なのだ。ものごとが進みつづけることが重要なのだ」

 勘ぐりすぎかもしれないが、作者のサン=テグジュペリは、この作品を書いている頃から、戦乱に押し流されていく世界の中で生きていくことに精神的に疲弊して、そのカタルシスとして、次世代に最高の希望を込めて「星の王子さま」を書いたのではないか。書き終えた時には、すでに人生を生ききったと満足し尽くしたのかもしれない。大戦中にドイツに占領されたフランスで、抵抗拠点(レジスタンス)であったフランス南部のマルセイユから偵察に飛び立ったまま帰らなかったという。無線連絡もなくその消息を絶ったのは、もはや、十分に人生を生きたという心持ちから、「戦争を戦う」ことに対して疲弊感があったのではないか。戦闘の結果であるか否かは別として、実質的に自ら死を選んだのではないかと。

 作品を見てみます。

 ファビアン(パタゴニア便の操縦士)は、嵐に襲われ、燃料も尽きようとしていた時、「光への飢えはあまりにも激しかった」。そして、上空にわずかに開いた穴の中に光る3つの星を見つけ、「罠であると、十分承知し」ながら、そこにむけて旋回しながらひたすらに上昇していく。

 そしてクライマックスともいえる第十六章が始まる(二木麻里版から引用);

驚愕のあまり息をのんだ。あたりは目がくらむほど澄み切って明るかったからである。

・・・郵便機は異様なほど静謐な世界の中にあった。嵐は三千メートルの厚さの別世界を作っている。猛烈な疾風と豪雨と雷の世界だ。それなのにこの世界は、天空の星々に向かって水晶と雪でできた顔を見せているのだった。生死の狭間の不思議な異界にたどり着いてしまったと、ファビアンは思った。

無数の暗い腕から解放されたのは確かだった。ひととき花畑を歩くことが許された囚人のように、縄は解かれていた。

「美しすぎる」とファビアンは思った。星々が宝のようにびっしりと煌く中を彷徨っていた。・・・

そしてこの後、燃料が尽きる時間を過ぎて消息を断つ。

 ファビアンは、作者サン=テグジュペリの姿そのものではないだろうか。


 この作品を読んで、さらにサン=テグジュペリとその作品への関心が高まりました。次は、「人間の大地」か「戦う操縦士」を読んでみたいと思います。翻訳(の質)が問題になりそうですが・・・。


余談:

 翻訳の違いによって、作品から受ける印象や、思い浮かぶ情景、人物像が影響を受けることは、翻訳の宿命で避けられないことだと思います。カミュの「ペスト」以前にも、ある翻訳を読んでいて、日本語の表現から、一体原文ではどう表現されているんだろうと気になって、世の中に出ている翻訳を比較したことがあります。また逆に、原書を読んでいて、この表現はどのように日本語に翻訳されているのだろうと気になって調べてみたこともあります。以下に二つの例をご紹介したいと思います。

(1)「星の王子さま」から

 原題は、「Le Petit Prince」ですから、そもそも、題名の翻訳から議論のあるところ(「星の王子さま」、「小さな王子」、「幼い王子」、、、)ですが・・・。

***

On ne voit bien qu’avec le coeur. L’essentiel est invisible pour les yeux.


「心で見ないかぎり、ものごとはよく見えない。ものごとの本質は、眼では見えない」 小島俊明

「心で見なくちゃ、ものごとはよく見えないってことさ。かんじんなことは、目に見えないんだよ」 内藤濯

「心でなくちゃ、よく見えない。もののなかみは、目ではみえない、ってこと」 大久保ゆう(青空文庫)

***

L’essentiel est invisible pour les yeux, ré’pé’ta le petit prince,


「ものごとの本質は、眼では見えない」 小島俊明

「かんじんなことは、目には見えない」 内藤濯


***

C’est le temps que tu as perdu pour ta rose qui fait ta rose si importante.


「きみの薔薇の花がそんなにも大切なものになったのは、きみがその薔薇のために時間を費やしてしまったからなんだよ」 小島俊明

「あんたが、あんたのバラの花をとてもたいせつに思っているのはね、そのバラのために、ひまつぶししたからだよ」 内藤濯

「バラのためになくしたじかんが、きみのバラをそんなにもだいじなものにしたんだ」 大久保ゆう(青空文庫)


***

Tu deviens responsable pour toujours de ce que tu as apprivoise’. Tu es responsable de ta rose…


「きみは、きみが飼いならしたものに対して、永久に責任があるんだ。きみは、きみの薔薇の花に責任があるんだよ・・・」 小島俊明

「めんどうをみたあいてには、いつまでも責任があるんだ。まもらなけりゃならないんだよ、バラの花との約束をね・・・」 内藤濯

「きみは、じぶんのなつけたものに、いつでもなにかをかえさなくちゃいけない。きみは、きみのバラに、なにかをかえすんだ、、、、」 大久保ゆう(青空文庫)


 さて、あなたは、どの翻訳がお好きでしょうか?あるいは、しっくりくるでしょうか?


(2)「赤毛のアン」から

原題はご存知の通り、「Anne of Greengable」。

***

Chapter Two: Matthew Cuthbert is Surprised

The little birds sang as if it were

The one day of summer in all the year.


「小鳥たちは一年中にただ一日の

この夏の日だと言うように歌いまくっていた」

(村岡花子 1952年(昭和27年))


小鳥たちは声をあわせ 歌っていた

この日をよそに もう夏の一日はないとばかりに

(猪熊葉子 1975年(昭和50年))


小鳥がうたっていた

きょうはじめて夏の日が

ほんとうにおとずれたかのように

(岸田衿子 1977年(昭和52年))


歌えるのは夏のこの一日とばかり

小鳥たちは声をはりあげる

(掛川恭子(やすこ) 1990年(平成2年))


小鳥たちはうたっていた。あたかも今日が

一年でただ一日の夏の日であるかのように

(松本侑子 1993年(平成4年))


小鳥は歌う。声のかぎりに。

今日ぞまさしくこれ夏の日と。

(山本史郎 1999年(平成10年))


小鳥たちは さかんに鳴いていた

まるで 夏の日はきょう一日しかないかのように

(でんでん虫)


***

Chapter Thirty-Eight: The bend in the Road

“God's in his heaven, all’s right with the world”


「神は天にあり、世はすべてよし」

(村岡花子 1952年(昭和27年))


「神、天にしろしめし、世はすべてこともなし」

(岸田衿子 1977年(昭和52年))

「神は天にあり、この世はすべてなにごともなし。」

(掛川恭子(やすこ) 1990年(平成2年))


「神は天に在り、この世はすべてよし」

(松本侑子 1993年(平成4年))


「神、空にしろしめし、世はなべてこともなし」

(山本史郎 1999年(平成10年))


 さて、あなたは感覚的にどの翻訳がお好きですか?

 なお、私は、若き日、米国在住の時に、ミーガン・ファローズがAnneを演じたバージョン「Anne of Greengable」を観てひどく感激し、この作品は特別の作品となっています。その私が選んだのは、松本郁子さんの翻訳です。

(終わり)

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