「樺太」について映画作品や書物を通して気づいたこと・考えたこと(2023年夏 北海道利尻島&礼文島サイクリングと登山の旅をきっかけに)
2023年夏、かねてからの念願だった最北の島々、利尻島と礼文島へのサイクリング&登山旅を実行できました。そのことはnote記事としてすでにご紹介しました。その旅の際に、これらの島々への唯一の渡航地である稚内に寄りましたが、帰りには、稚内の街を見下ろす丘の上にある稚内森林公園にテント泊したことも、すでに別の記事に書きました。
この丘の一番高い場所に、80mの高さがある展望塔(稚内市百年記念塔)が立っていて、海抜240mになる展望室からは360度の展望が得られます。
この展望塔の地上部には、稚内市北方記念館が併設されています。この館の展示の中に、先住民アイヌの歴史や、樺太を探検して地図を完成させた間宮林蔵(伊能忠敬の愛弟子)の足跡とともに、戦前日本の領土であった南樺太の様子(鉄道、街々の広がりなど)が詳しく紹介されているコーナーがありました。そして、その片隅に、終戦時にその南樺太の中心都市真岡(まおか)で起きた若い女性たちの集団自決の悲劇が映画となっているという立て看板が展示されていたのでした。今まで全く聞いたことがなかった、知らなかった歴史的事実でした。アジア太平洋戦争の数々の悲劇が伝え語られている中で、おそらく、現代の日本人にほとんど知られていない事実ではないかと感じられました。
旅の最終日の前日の夕方、礼文島から戻ってきて、雨模様の天候の中、斜度10%を越える坂を、テント泊の荷物を背負って喘ぎながら登りました。テント設営の後、身軽になって、街まで降りていき、再び登りを繰り返したのですが、視界がほとんど効かない天候の中で、稚内公園に上り切る手前にあった慰霊碑に関心が向かなかったことが、後で大いに悔やまれました。天気が良ければ目の前に北の海の展望が大きく広がる場所に、「氷雪の門」と命名された慰霊碑が建立されていたのでした。そこには、門を模した高さ8メートルの二本の柱の間に窮屈に挟まれるような格好の女性像が立っています。樺太で亡くなったすべての人々を慰霊する碑だといいます。そして、少し離れた場所に、この物語の主人公たちである、真岡郵便電信局で自決した9人の若い女性たちを慰霊する碑が建てられています。
気づかずに上り下りして通り過ぎた坂道のすぐ横にあったこれらの碑が語りかけようとしていたこの物語の全貌を知ったのは、旅から帰ってこの映画作品を鑑賞し、さらには原作の書物を開いてみてからでした。
https://ja.wikipedia.org/wiki/氷雪の門#/media/ファイル:Hyousetsu_no_mon.JPG
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「樺太1945年夏 『氷雪の門』」監督 村山三男、総指揮 三池信、小倉寿夫、1972年(株)JMP
作品DVDケースのキャッチコピーに”日本映画幻の名作”とあり、「憎しみの銃火を浴びた北国の街!最後の開戦は乙女たちの慟哭を残して切れた・・・」とある。文部省選定・優秀映画鑑賞会推薦・青少年映画審議会推薦・全日本教育父母会議推薦・日本PTA全国協議会特別推薦と、多くの公的組織や教育関連団体からの推薦を受けた作品と紹介されている。
この物語には、金子俊男『樺太一九四五年夏 樺太終戦記録』(講談社)という原作がある。概ね、この原作に沿う形で映画作品もできているようだ。このセミドキュメンタリともいうべき歴史悲劇の作品の特殊性は、制作されるまでの経緯、制作後の経緯にも多く存在する。
制作は、郵政省に関わる事件であることから、資金集めのために、郵政大臣を努めた衆議院議員が担ぎ出されて制作会社が作られ、戦闘場面の撮影のために自衛隊の協力を得て、自衛隊の戦車がソ連戦車として使われたりした。また、前宣伝の段階で、当時の首相田中角栄が、主要な女優たちと懇談する場が設けられたりと、かなり政治的な色彩を帯びた作品となっていった。
さらに、この作品の公開に対して、ソ連から、作品を上映すれば「ソ連国民、ソ連軍への誹謗中傷であり、友好関係を損ねる」との異議、圧力がかかり、公開が延期された。政治問題となり、制作に関わってきて、配給も決まっていた「東宝」が手を引かざるを得なくなった。最終的に、相談を受けた岡田茂の「東映」が、”東映洋画部”(!)配給の作品として引き受けることとなり、ソ連も自分たちの異議が認められたとして了承したという。こうして公開にこぎつけたのだが、いざ公開となると、今度は、予定の上映館も上映期間も大幅に縮小されてしまった。この経緯は明らかになっていないという。こうして、この作品は、「”幻の”名作」と呼ばれるようになったのだった。
※参照:https://ja.wikipedia.org/wiki/樺太1945年夏_氷雪の門
もう一つ、気づくべき点は、この作品の原作が出版されたのが1972年、映画の制作が1973年、公開されたのが1974年であるということである。1972年は、日本の戦後史にとって重大な出来事である「沖縄返還」の年である。先の戦争で起きた、強要も含めた集団自決の悲劇の数々は、沖縄の悲劇として語られてきている。本土からは南の最果ての地である沖縄で起きた若い婦女子の集団自決として最も有名で涙を誘うのは、映画「ひめゆりの塔」に描かれているひめゆり学徒隊の女学生たちの百数十名に及ぶ集団自決であろう。一方で、規模こそ違えども、北の最果ての地で、職務に準じて自決した9名の若い女性たちの悲劇は、ほとんど語られず、知られずに歴史の波に飲み込まれてしまっているようだ。
この悲劇は、沖縄のひめゆり学徒隊と対比して北のひめゆり(事件)と呼ばれることもあるようだが、適切さを欠いた呼び方であるように感じる。沖縄のひめゆり学徒隊と比べても、歴史的、社会的認知度が低いのは、この悲劇の関係者にとって悲しいことであろう。
記憶される歴史と記憶されない歴史の境界線は、どこにあるのだろう。
なお、作品では、9人の女子交換手が全員服毒自殺を図って死亡となっているが、歴史的事実は、12人の交換手のうち9人が死亡し、3人が生存していた。生存した3人の身元、素性や経緯については、記録として残されていないようである。
最後に、作品に出演している主な俳優たちを記しておきたい(順不同)。錚々たる俳優陣である。
南田洋子
田村高廣
二木てるみ
岡田可愛
藤田弓子
丹波哲郎
黒沢年男
赤木春恵
浜田光夫
千秋実
島田省吾
など
作品の中で描かれている主な歴史的出来事をまとめてみると次のようになる。
8月 8日夕刻 ソ連、対日宣戦布告
8月13日 民間人、南へ避難行軍開始
8月xx日 婦女子疎開決定(電話交換手も含む)。しかし、女性交換手たちは、自分たちに最後まで務めさせて欲しいと陳情する。その結果、男子中学生を短期間で育成することになり、それまで(23日まで)、女性交換手は残れることになる。
8月xx日 民間人を乗せた引き揚げ船、すべて撃沈(2隻?)される
8月16 日未明 ソビエト軍は北部の主要都市恵須取(エストル)(人口4万人)を爆撃
8月17日 真岡から疎開始まる。
恵須取の看護婦たち23人集団自決。17歳から32歳までの6人が死亡。
8月xx日 日本軍とソ連軍の交渉の席で、ソ連将校が「負けた国に国際法はない!」と述べる。
8月xx日 ソ連艦隊数隻、真岡に向かう。
8月20日 真岡を艦砲射撃 死者負傷者多数。
電話交換手の女性たち、集団自決する。
参考データ:
・南樺太の総人口 約40万人
・南部の大泊(稚内と航路で結ばれた港町)、豊原(内陸)、真岡(西海岸)の3都市が4−6万人の主要都市
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「樺太地上戦 終戦後7日間の悲劇」NHK 2017年 DVD上映 43分
2017年8月24日、NHK総合にて放送されたドキュメンタリー番組。このようなドキュメンタリー番組が放送されていたことをこの時まで全く知らなかった。以下の概要を紹介したい。
2017年当時、公開された公文書館の書類と生き残った家族たちからの聞き取りをもとにして、このドキュメンタリーが作られた。
昭和20年の夏時点で、日本領樺太(北緯50度以南の南樺太)には約40万人の日本人がいた。終戦前後の樺太での戦闘の犠牲者は5−6千人に登り、大半は民間人だった。
日本軍は、樺太死守を掲げて、民間人を前面に立たせた。
真岡の電信局の電話交換手、9人の若い女性たちが服毒自殺で命を落とした。家族の集団自殺も相次いだ。
8月9日ソ連軍、日ソ中立条約を破棄して、南樺太に侵攻。西海岸北部の中心都市恵須取(えすとる)では、日本軍が先制攻撃を仕掛けた。上陸しようとした浜で7人を射殺した。これが引き金になってソ連軍が押し寄せてきた。
8月15日、停電で玉音放送が聞けなかった。軍も終戦を隠していたので、民間人は15日以降も終戦を知らなかった。
樺太守備は陸軍第88師団。16日、大本営は、札幌方面軍に終戦(敗戦)を涙ながらに伝えた。しかし、札幌方面軍は、第88師団に樺太を”死守せよ”との命令を伝えた。なぜだろう。
軍の”思惑”のあるこの命令で、失わなくともすんだ多くの命が失われることになる。
ソ連は、米国との密約で、対日参戦で樺太と千島列島を獲得していたとの話がある。しかしスターリン・ソ連の思惑は、樺太、千島だけでなく、北海道北部も手中に収めようと考えていたこともわかっている。これは、トルーマンが、「北海道も含めて日本の領土は連合国軍総司令官マッカーサー元帥の元に置かれる」と跳ねつけたことで、実現しなかった。歴史に「もしも」はないのだが、もしソ連軍が、樺太の守備軍の抵抗に合わなかったら、一気に南下して、米軍の統制下に入る前に北海道北部に侵攻していた可能性がある。その場合、実質支配の名の下に、北海道北部はソ連に占領されて、ソ連に組み込まれていたかもしれない。しかし、この「もしも」をもって、軍部が戦争終結を引き延ばした行為を擁護する本末転倒の主張をする輩(やから)がいるようなので眉に唾をつけて用心すべきだ。
沖縄戦が6月23日に事実上終結した。この1日前の6月22日に「義勇兵役法」が成立していたことを知った。この法律は、「本土決戦」、「一億玉砕」のスローガンを具体化する動きであった。この法律によって、”15歳の少年までも召集して少年兵として戦闘に動員できること、さらには女子も兵役に服し戦闘隊に編入できるとされ、義勇兵役は通常の兵役と同じく「臣民の義務」であり、義勇召集を不当に免れた者には2年以下の懲役が科せられる”(Wikipedia)法律であった。
樺太では、この法律に基づく「国民義勇戦闘隊」が実際に組織され、”全員玉砕まで戦う”民間人戦闘隊として戦いに参加した国内で唯一の地であった。しかし戦闘隊とは言いながら、竹槍で遊撃戦を戦う集団自殺行為に等しかった。
北部からの民間人の避難は悲惨な状態だった。ソ連軍の追撃から逃れるために、我が子を崖から突き落とす、乳飲み子を置き去りにする、歩けなくなった子供と一緒に家族全員で手榴弾自決する、機銃掃射で歩けなくなった母親を置いて子供だけ逃避行する、・・・。
8月20日ソ連、最大の上陸作戦を真岡に対して行う。
日本軍とソ連軍の間で停戦交渉が行われたが3時間の交渉の末決裂。日本軍は、「進軍を停止せよ」、ソ連軍は「武装解除して捕虜になれ」。
日本軍の将校の中には、家族6人全員を道連れにして自決したものもあった。
日本軍は、真岡と軍の中枢部があった豊原を結ぶ山越の熊笹峠に陣取り、ソ連軍を阻止せよとの命を受けていた。そのため、真岡を守ろうとはしなかった。
この時戦いに参加していた元ソ連軍人の涙ながらの証言がある:「ソ連の兵士たちは、民間人を次々に虐殺、女たちを強姦していった」
姉が真岡電信局の交換手だった女性の証言がある;彼女は引き揚げ船に乗船して生き延びた。姉は交換局に残ると言って船に乗らなかった。この後、仲間と共に青酸カリで自決して命を落とした。この時、真岡で約千人の民間人が死亡した。
終戦から1週間経って、札幌方面軍から第88師団へ「降伏せよ」という命令が出された。
作家で評論家の保阪正康の言葉:「責任が曖昧なまま今に至っている。責任を感じているのは一般人たち。指導者や指揮者たちの責任が全く追及されていない日本は異常だ。」
この痛ましい歴史を直視して学ぶべきではないだろうか。
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「樺太一九四五年夏 樺太終戦記録」金子俊男 1972年 講談社
※2023年に筑摩学芸文庫で復刊された
樺太を故郷とし、家族と共に終戦の混乱の中を生き残った著者が、北海タイムスの社会部部長・編集者を務めながら、1年間連載した「樺太終戦ものがたり」が、この本の元になっている。
実に綿密な取材と調査によって歴史的事実を忠実に記録に残そうという姿勢で記述されている。貴重な歴史的証言資料といえる。もっと広く世に知られるべき著作であろう。二段組で400ページにわたる大作である。
この資料に基づいて、映画「氷雪の門」も製作されているが、この映画作品に描かれている悲劇が生じた真岡の地での混乱と犠牲は、後半残り三分の一あたりから始まる。真岡の悲劇に至るまでに日本領南樺太北部の各地で真岡に劣らない悲劇が繰り広げられていたことがわかる。
民間人無差別殺戮、強奪・暴行、集団自決、一家心中、子捨て、親捨て・・・
魚雷攻撃で引き上げ船遭難;3隻で1700余人が犠牲
恵須取の女子監視隊(若い女子隊員)、民間義勇隊の犠牲
炭礦病院(王子製紙系列)の看護婦たちの集団自決(6人)
焼死する母親
避難民同士の争い
・・・
陸軍の指揮命令系統の乱れ、思惑に多くの民間人が犠牲になった。
一方で、軍関係者の家族や家財の避難が最優先された。
地位、権力、武力によって腐った人間たちの姿がここにもあった。
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付記:樺太の歴史的経緯概要
1800年初頭に、間宮林蔵らが樺太を調査し、最北端までいたり、島である樺太の地図を完成させる。その後、ロシアと日本双方が進出して、衝突が繰り返され雑居状態になる。1875年(明治8年)に 樺太・千島交換条約締結により樺太島全島がロシア領となる。この時、千島に住んでいたアイヌ民族は日本国籍を、樺太に住んでいたアイヌ民族はロシア国籍を、彼らの意思、意図を無視して強要されることになった。またロシアは、流刑地として囚人を送り込むようになる。この時期に、アントン・チェーホフが樺太を訪れて、のちに「サハリン島」を執筆する。
1904年2月から1905年9月にかけて行われた日露戦争は実質的に日本の勝利に終わり、日露間で講和条約が締結されることとなった。講和会議において、ロシア側は賠償金の支払いを拒否した。日本側はロシアに樺太の南半分(北緯50度以南)の割譲および租借地であった遼東半島の日本への利権の移譲を認めさせ、さらに、日本の満洲や韓国に対する指導権の優位などを認めさせることで妥協し、1905年(明治38年)9月4日、ポーツマス条約に調印した。しかし、この条約の内容は、日本国民が考えていた講和条件とは大きくかけ離れるものであった。日本側は賠償金50億円、遼東半島の権利と旅順 - ハルピン間の鉄道権利の譲渡、樺太全土の譲渡などを望んでいた。不満を募らせた人々は、条約翌日の9月5日に日比谷焼打事件を起こすに至った。
(Wikipedia 「日比谷焼打事件」「ポーツマス条約」から)
1945年8月の敗戦により、樺太はソビエト連邦に占領された。その後1952年のサンフランシスコ講和条約で日本は樺太を放棄した。以降、日ソ、日ロ間で平和条約が締結されないまま、ロシアが実効支配している。
(Wikipedia等から)
以上