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批判と誹謗と中傷と創作と

大衆に見られるということは、やばいやつにも見られるということだし、そういう人間の悪意やら善意からくる無神経さから自分を守るモノの見方であったりは〈技術〉として身につけておいた方が良い。これは〈性格〉の問題というより〈技術〉の問題。

ことばの(辞書的)定義:批判と誹謗と中傷

・批判:(悪いところを)根本的に批評(よい点や悪い点を取り上げて評価を述べること)すること
・誹謗:そしること。中傷。
・中傷:<わざと/不当に>人のことを悪く言って名誉(メイヨ)をきずつけること。

三省堂国語辞典第7版より

意外にも国語辞典では誹謗と中傷はほぼ同義とみなしているようだ(誹謗に中傷が含意されている)。唯一、大きな違いと言えるのは、名誉の毀損が入るか否かであるようだ。
以下は、辞書の定義を私なりに(いま現在、実用されている意味にすこし引き寄せた解釈をしたものに)置き換えた定義。重要と思われる部分を太字表記にした。

※私なりの解釈※
(国語辞典の説明で腑に落ちない部分を改めてみた)
・批判:何かと何かを突き比べて評価をする/意見を述べること(主に否定的)。
・誹謗:悪口をいうこと、謗ること。
・中傷:根拠のない発言によって名誉を棄損すること。

私の認識(創作者批判に対する反応について)

例:ネットに載せた創作物に批判的な意見が来た。

➖望ましくない反応
ゼロヒャク思考
◆「俺/私の作品はゴミだ、何の価値もない(ゼロ)」
◆「俺/私の作品は完璧、どこにもケチつけるところなし(ヒャク)」

➕望ましい反応
グラデーション思考
◆「そういう人もおるんかー」
◆「この部分については否定的な評価をされているが、他にこういう美点がある」

創作者側としては、下の思考(グラデーション思考)をできれば持ちたい。技術として下のような捉え方を身につけておくことは自分のメンタルを守るのに役立つ。

一方、ある創作者にその技術がないことを以て「ネットで創作物を公開するのに向いていない」というのは立派な悪口(誹謗)である。
批判に対する反応に対して、「キモい」だの「メンヘラ」だの、作品と関係のない人格否定の語をぶつけるのも、悪口(誹謗・人格攻撃)にあたる。NG。

「創作者ならば批判は受けて然るべき」に対する私の見解

◆たぶん、正当な批判であっても人によってはいい気はしないでしょう。それら一個一個は微細なストレスであっても、何百〜何千と積み重なると我慢できないくらいの苦痛になる。つまり、"正当な"批判であっても積み重なると人は壊れる。

◆創作者の中には(けっこうな割合で)、作品が自分と同一化するくらい入れ込んでる人もいるから、作品に対する否定的評価 ≒ 自分に対する否定的評価と取る人もいる。

◆これを以ってして「ネットに創作物を乗せるのに"向いてない"」という表現がしばしばまかり通るが、実をいうと数百〜数千の〈真っ当な〉批判を受けた経験をもつ人じたいがごく少数で、上記のように言う人のだいたいはこの種のストレスに耐えられるとは思えないのである。人間がそもそもそういうとこある。

◆多くの人は(先天的に)多数の"真っ当な"批判を受け流せる性質ではないとすると、獲得すべきなのは受け流す〈スキル〉であって、これは後天的なものである。生まれつきのものでない。だから、「向いていない(資質がない)。ダカラヤメロ」という表現はおかしい。「スキルがない(素養がない)。ダカラミニツケロ」ならまだわかる。

◆たとえば、人間には一度覚えたことをすぐに忘れてしまうという(先天的)性質がある。それを以てして「お前、アタマ悪いから勉強するのやめろ」というのは立派な悪口であろう。「放っとくと忘れちゃうからトレーニング(勉強)しようね」でいい。

最後に

①正当な批判と②ただの難癖と③完全な悪口や人格攻撃。
これらのうち、①と②はわりかし似ていて区別がつきにくい。創作者側でも混同してしまう場合がある。
しかし、①や②と③はあきらかに見分けがつくパターンが多い。作品そのものではなく、創作者本人への攻撃と見られる言葉が用いられるからである。

批判も真っ当なように見えて、自分の中で鬱積した負の感情をぶつけてるだけのモノが少なくない。
加えて「批判だからオッケー!👍」と思っている人もいると思うのだけれど、その限りではなくて。
例えば、「批判や指摘は求めてません」と宣言(明言)している人に対してわざわざそれをやるのは、もう嫌がらせの範疇に入ってくると思われる。
つまり、相手に対して心的ダメージを入れるような行為を意図的にやるのは、一種の「暴力/傷害」となりうる場合がある。

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