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お香と煙草と思ひ草

最近またお香にハマっている。

沈香(じんこう)

私は近頃、沈香(じんこう)というお香をよく焚いている。
沈香(じんこう)というのは、熱帯アジア(インドネシア等)原産のジンチョウゲ科ジンコウ属の常緑高木であり、わりとポピュラーな香木である。

お香といえば、やはり白檀(びゃくだん)が一番人気だと思うのだが、私はこちらの沈香のほうが好みだ。白檀も非常によい香りがするのだが、少し甘ったるい感じが過ぎると思うことがある。いつか紹介した東寺の「風信香(ふうしんこう)」なんかは思いっきり白檀が入っているが、あれは含有されている白檀の量がそれほど多くないためか、そんなに甘さを強く感じない。ほんのりと漂う程度。

一方、沈香は(モノにもよるが)甘さはほとんど感じない。The "仏壇の匂い"である。私は幼少のころ、毎年学校の長期休みの時期に祖父母の家に遊びに行っては、仏壇の静置された部屋で線香の香りを嗅ぐのが大好きな少年であった。

三つ子の魂百まで。当時の精神はアラサーになった現在にも受け継がれているらしく、仏壇っぽい香りを嗅ぐと心が鎮まるのを感じる。興奮してHighになっているときや逆に落ち込んでLowになっているとき、頭が忙しいとき、なにも思いつかず考えが進まないときはお香を焚きながら、部屋を暗くし、爆音でBjörk(ビョーク)をかけるとだいたいのことは解決する。ちなみにBjörkの最新アルバム『Fossora(フォソーラ)』はマジで良いので聴くといい。

あと、お香って絶対変な成分(化合物)入ってますよね?
じゃないとあんな気持ちよくならないよ。

弟が居室で煙草(メビウス)を吸っているときによくその匂いを嗅ぎにいくが、お香を嗅ぐのは私にとってそれと同じである。
脳内で快楽物質を放出してくれる働きをもつであろう香りだから、両者とも依存性があると思われる。なのに、お香はわりかし高尚な趣味として、煙草は嗜む者すなわち悪人のレヴェルで世の中から排斥される流れにある。私は可哀そうだなあと思う。

煙の成分がお香と煙草では違って、前者は人間への悪影響が少なく、後者は悪影響の塊であることが主たる理由であろう。
私個人の意見を述べさせてもらえば、煙草は嫌いではない。むしろ、大好きだ。だから、離れて煙草を吸っている弟の部屋までわざわざ紫煙を吸い込みにいく。喫茶店でも喫煙者でないのに喫煙席を選んだりする。思いっきり受動喫煙している。これが、後年、私の健康状態に悪影響があるの嫌だなあ……と思いつつ、あの香りが嗅ぎたいという気持ちが勝ってまうわけである。

香の話をメインにしようと思って書き始めた当記事であるが、今のところ煙草の話がメインとなっている。私にとってはどちらも「気持ちを落ち着かせる(心を鎮める)煙」という位置づけなので、それが毒であろうがなかろうが、わりかしどうでもいい。歳食ってから後悔するのかもしれんが。

それで、この記事を書きながら、煙草について調べていたら、煙草のことを「思草(おもいぐさ)」と呼ぶらしい。
古くは万葉集に登場する和歌のなかでこう読まれている。

「道辺の尾花が下の思草(おもひぐさ)今さらになに物か思はむ」

出典:『万葉集』(二)、講談社、中西進

どの植物を指すのかについては古来諸説がある。和歌で「尾花が下の思草」と詠まれることが多いところから、ススキなどの根に寄生する南蛮煙管と推定されている。「思ふ」を導いたり、「思ひ種」にかけたりして用いられるが、下向きに花をつける形が思案する人の姿を連想させることによるものか。

出典:精選版 日本国語大辞典

『万葉集』の和歌の訳をざっくり言うと、

「道のほとりの尾花の下の思い草のように今さら改めて何を思いましょうか」

出典:『万葉集』(二)、講談社、中西進

というような感じになる。

4,500首もの和歌が収録されている万葉集のなかで唯一「思ひ草」という名で詠まれているようで、「思草」というとこの南蛮煙管(ナンバンギセル)という植物を指すという説が現在有力であるようだ。

なんだかこの和歌、

ススキの下に人知れずひっそりと咲く「思い草」。愛しい人を陰ながらに思いながら詠まれた、まさに「忍ぶ恋」を象徴した歌ではないでしょうか。

思い草 - なぶんけんブログ
https://www.nabunken.go.jp/nabunkenblog/2020/09/20200924.html

うーん……解釈が綺麗すぎる!映画版ジャイアンくらい綺麗や!

まず、南蛮煙管(ナンバンギセル)というのは秋の植物で赤紫の筒型の花が首を垂れるようにして(うつむいた形で)咲く姿が特徴的な花である。頭を垂れている様子が人が思案している様を思い起こさせる(と感じる人がいるから和歌でそういう詠まれ方をしている)ようだが、私にはいまいちピンとこなかった。
というのも、これは、イネ科の寄生植物で、ススキやオキの根に寄生し成長して花を咲かせるようで。(寄生木ということは他の植物から栄養を吸い取って生きとるんかワレ……と思ってしまった笑)
つまり、「他者に寄生して生きとるヤツが何を思案することあんねん……笑」と思ったというわけなのだが、同時にある意味<親近感>も生まれた。

だってね?私とおんなじ状況だからです。

私はいま精神障害者の身で国からお金をいただいて生活している。しかも、両親や兄弟と同居して生活費を担ってもらっている。まさしく、「寄生」している。
そして時たま、こういう文章のようなモノを書いたり、Twitterでクダ巻いたりして「思案」しているフリをしている。しかしその実、何も考えていない。

正直、ここに書いていることも思案の産物というよりは、目の前で焚いてる香を見て、弟の吸う煙草を連想して、そういえば煙草ってなんか異名あるんかな?思って調べたら「思草」なんちゅう立派な名をもらってはいるが、その実、他の植物に寄生しておるだけで、ワシと同じやないか!!というところまで、ほぼ脊髄反射みたいな感じで書いてる。

この南蛮煙管(思草)もなんか思案に耽っているような神妙な顔をして実はなんも考えていない。そういうフリが上手いから他者に寄生して生きながらえることができるんですわ!
みたいな視点で私だったら句を詠むかもしれない。
以下。

道端で 泥だに根を張る 思ひ草
頭さげこそあれど 何をか思はむや

(訳)
道端で泥にすら根を張り養分を吸い取る思い草
頭を垂れて何か思案している様子だが今さら改めて何を思いましょうか(いや何も考えていない)

わたくし

締.

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