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頭の回転が速いことってそんなにだいじなの?

深夜にパッと目が覚めて思いついたことを記していく。普段の対面でのコミュニケーションについて思うこと。つぶやき。3,000字くらいで読めますので、どうぞよしなに。


──つぶやき

■なんか、自分があんまり頭よくないからかもしれないけれど、普段やってる会話とか議論()って、ほとんどが「反射神経のゲーム」みたいに見えてしまって、その場で適当でもそれっぽい回答出せばOK!なところがあり、結局全部(要は大半はその場で出任せ言ってるだけで)無意味じゃない?と思った。

■対面でのお話し合いで出される結論って、その場の思いつきに左右される割合が高くて(後からあれはあんまり正確じゃなかったな…とか別の言い方をすべきだったな…とか思うわけで)、だったらあらかじめきっちり考えた結果をぶつけ合った方がずっと生産的じゃない?って思ったのよ。

■なんていうのかな、答えがひとつじゃなくて、思考を発散させる必要のある創作活動とか即興でのやりとりによって生じるお笑い等においてはお喋りってだいじな側面あると思うんだけど、答えをひとつに定める必要のある(思考を収束させる必要のある)活動においては、思いつきのやりとりってあんまり意味をなさないんじゃないかっていう所感。

■頭の中がよっぽど整理されていて、自分の中でこの問題に対する自分の回答はこれ!って定まってる人どうしの会話ならその限りではないけど、大半の人はそうじゃないでしょ?じゃあ、そんな会話or議論してなんの意味があんの?って思うことがときどきあるのよ。だって出任せじゃん、それ、っていう。

■まあ、そのために論文とか学術誌(とはいかなくとも書籍のたぐい)があると思ってるんですけどね。

頭の回転の速さってそんなにだいじなの?

そもそも根底には頭の回転の速さって世の中で言われてるほどだいじか?っていうのがありまして、もちろん、企業ないしはそれに準ずる組織で労働に従事していくうえで、他者から投げかけられた問題に対して、即座に適した回答を引き出せる能力というのは重要です(少なくとも持っていた方がずいぶん社会適合的)。これには私の浅い社会経験に基づく偏見も多分に入っていると思われますが、だいたいの労働ってそれほど複雑な処理を要求してこない。むしろ、複雑さが中程度の課題に対して爆速で回答することを重視しているのではないかと思います。そして実はそんなに満点回答は要求されていない。つまり、8割くらいの完成品を納期内に納品すればお客様は満足してくださる。世の中の大半は組織の勤め人ですので、そういった背景もあって世の中では「頭の回転が速いこと」が持て囃されているようなきらいがあると思います。

頭の回転の速さってなんぞや?

ここで「頭の回転の速さとはなんぞや?」ということについて少し考えてみたいと思います。まず、私は脳ミソの中にたくさんの(記憶を格納する)引き出しがあるというイメージを持っています。この引き出しの中には各々がこれまでの人生の中で蓄えた知識なり経験なりスキルなりが格納されています。この引き出しにたくさんの知識を入れて、それを普段から引き出す練習を何度もしていれば、必要なときに必要な知識をすぐ引き出すことができる。逆に、引き出しの中に全然知識が入っていなかったり、引き出す練習をあんまりやっていなかったら、引き出しが錆びついて滑りが悪くなったり、どの引き出しにどの知識が仕舞われていたのかを忘れてしまう。「頭の回転が速い」というのは、まさに前者を指し、場面に応じて適宜必要とされる引き出しに素早くアクセスして必要な記憶を引き出してくることができるということだと定義できます。

ここでだいじなのが、「頭の回転が速いこと」は無から有を生み出す芸当ではないということです。その本質は上述したようにすでに知っていることを必要とされるタイミングでできるだけ素早く引き出してくることができる能力というところです。別にその場でゼロから思考して回答を導き出しているわけではないということです(そんなことをしていては圧倒的にスピードが足りませんからね)。専門家とよばれる人たちは何も手品のようにゼロからイチを生み出しているわけではなく、非常に基礎的な訓練を何度も積んでその結果、常人では考えられないようなスピードで、顧客に対して適切なタイミングで適切な知識を提供することのできる人たちのことをいうのだと思います。(彼らは後述する練られた知識・思考を引き出しに有しているので、即興でも実のある議論ができる可能性が高い。しかし、そんなプロであっても文面でのやりとりに比べて議論の精度は落ちる)

「頭の回転が速いこと」の落とし穴

「頭の回転の速さ」というのを「脳内にある記憶の引き出しからそのとき必要な記憶をできるだけ速く引き出してくる力」とザックリと定義したうえで、その長所と短所について(そして主にその落とし穴について)少し考えてみましょう。

長所は紛れもなくスピードです。速くザックリとした答えを知ることができる。これに尽きると思います。頭の回転の速い人の最大の美徳です。逆に短所は応答が深まりにくい。要は頭の中にすでにある知識を引っ張り出して即興で回答しているわけですから、その回答はそんなに深く練られたものではない(場合が多い)、ということ。個人レベルでは深く練った知識・思考を脳内の引き出しに格納して準備している人はもちろんいますが、みながそうではない。多くの人を交えて話をすればするほど、練られた知識・思考をもった人に対して議論を深められるような回答を即座に持ってこれる人の割合が少ないことによる影響が顕著になる。なんとなくそれっぽいことをいえる人が場を支配し、議論がなんとなくそれっぽいことの応酬に終始してしまいがちということでもあります。つまり、議論を深める余地が少なくなる。ズレたところで議論がグルグルする。なかなか核心まで迫らない。ゆっくりの思考である文章(とりわけ論文や学術誌を主とする書籍)等で可能な深く・正確な思考のやりとりが「即興性を重視する」という性質のせいで議論をどこに着地させたいのかわからないままその場をフワフワと所在なく浮遊してあとはテキトーなところに不時着させよう!ってな感じで終わってしまい、残念だな……と感じることが儘あります。
頭の回転が速いことを最も活かせるであろう、対面での会話・議論においても落とし穴がないわけではないということがここで私のいいたいことです。(恐ろしいことに、世の中には頭の回転が速く、その場で深い思考にたどり着けるという「怪物」が存在しますが、そのような「怪物」はかなりの上澄みだと私は解釈していますので、ここでは取り上げません。あくまで「一般人」について話をしています)

これは、頭の回転の速さが問題なのではなくて、対面での会話や議論という即興性を重視する〈場〉の責であると思う方は多いと思います。しかし、頭の回転が速い人というのは自分の得意を活かせる即興性を重視する場を選好する傾向があると推察できますので、結局のところ、頭の回転の速さを重視する世の中になるということは、こういう場での振る舞いを重視するということにつながっていくと思っています。

所感

近年、巷では「頭の回転が速いこと」がまるで「頭が良いこと」と同義だとされる風潮にあると考えています。当たり前の話でありますが、「頭の回転が速いこと」と「頭が良いこと」の集合は部分的にしか重なりません。即興の議論(ともいえない)「言い合い」で他者を言い負かすことが果たして「賢い」といえるのか?私は疑問をもっています。むしろ、「頭の回転が速いこと」に偏重しすぎると、思考が軽くなってしまうような気がしてなりません。前述のように脳内にしっかりと練られた知識・思考を有している人であれば、その場で有意義な議論も可能なのでしょうが、その人とて全方位的に練られた知識・思考を有しているわけではないことがほとんどであると筆者は予測します。これは裏を返すと、綿密な議論には周到な準備が必要だということになります。準備のない議論なんてその場の思いつきの応酬でしかないでしょう。思考の瞬発力・即興性というのは、だいたいの一般人にとって、いわばその場しのぎの「出任せ」を絞り出す能力ではないかとまで疑ってみたのが、冒頭のつぶやきです(これは少し疑いが過ぎたな…とも思ってますが)。そんな「出任せ」どうしをぶつけ合って、いったい何の意味があるのだろう?何も建設的で実のある議論なんてできないんじゃないか?そういう疑問をもってしまいました。これは私がYouTubeの某ニュースチャンネルでパネラーどうしがある議題について討論(?)のようなものをしていたのを見たところから着想を得ていますので、たまたまそこにいた論者たちの議論がしょーもなかっただけかもしれません。とはいえ、近年の「頭の回転の速さ」に偏重した風潮に「頭の回転の遅い私」は辟易としていましたので、頭の回転の遅い側からのひとつの視点ということで受け取っていただければ幸いです。

了.

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