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【文章】おもしろい文章をどう書こうか?〈最近のスランプについて〉

まだ、書きたいこと、放っておいたら、いっぱい出てきそうだが、この辺で打ち止めにしておこう。これ以上、書いてもあまり良い結果を生まない気がしてきた……。

現在、持病の状態により文章を書くためのインプットがほぼ不可能な状況なので、以下の文章はまったくインプットの作業を介さずに書いた。インプットができない時期に書く文章というのは、どうしても内省的なモノになる。そして、内省的なモノというのは、大抵の人々にとってはつまらない/どうでもいいことである。私は文章のプロでもない、noteという媒体で、漠々と駄文を書き連ねるだけの一介の兄ちゃんである。そんなヤツの内心を覗きたいという人は、ごく一部に限られると思うが、読みてえヤツァ、読んでけ。そんな感じ。こうやって、予防線を張らないと文章を公開できないくらいには、今の私の文章に対する自尊心はボロボロである。

近頃、文章を書くときに考えていることについて書いた。こういう文章を書くうえで感じている内心を吐露したような記事は、実は他にもストックがあるが、はたしてこれを読んで読者の方に訴求するモノがあるのかというと疑問符が付かざるを得ないので、今は心の内にしまっておくことにする。遅かれ早かれ、また、追々、公開していくことになるとは思うが。

最近スランプで良い文章が書けない……。

最近の私の文章を読んでくださっている方々には、もう伝わっていることだと思うのだが、完全にスランプに入った。一応、現状50記事分くらいのストックをもっているので、記事を出せないことはないのだが、どれも私の思うようなクオリティに達していなくて皆さまにお見せできていない。記事を出せない原因も複合的であって、それを説明する「言い訳記事」みたいなモノもいくつか書いたが、どうも読者の皆さまにうまく伝わる気がしない。以前のように文章を書くことに対する熱量も今は湧いてこない。私のnoteには、軸のようなモノ(いわゆる得意ジャンル)がなくて、良くも悪くも逆にそれが特徴みたいになっている。基本的に多くの読者(フォロワー)さんを獲得しようと思ったら、属性は統一されていた方が望ましいのだが、私の場合、そういったモノもない。これは、基本的に私の文章に対する姿勢みたいなモノも関係していて、多種多様なジャンルについて語れる雑食性の方が物書きとしては強いという考えがある。しかし、折に触れて他人の書いた文章を読むにつけて、同時に軸のひとつやふたつはもったうえで、いろんなジャンルに手を出した方が良いのではないかとも最近とみに思う。「この人と言えばこの記事。だけど、他のあの記事もおもろいよなあ……」と思ってもらえるのが、まあ理想っちゃあ理想なのだが、軸を確立すべきかどうかとか、軸とするのなら何を軸にしようかとか、そんなところで揺れ動いているのが、現在の心境である。

自分の<作品>に対する要求水準の上昇と自身の成長速度

もとより私には人よりも精通しているジャンルがない。このnoteは自身のうつ病体験と好きなVtuberの紹介からはじめたが、それらについても私より詳しい人はごまんといる。そういう人たちに専門性では太刀打ちできないから、私は広く浅くモノを知っている人になって、いろんなジャンルについて、まだそのおもしろさ(実態)を知らない人、触れたいけどどこから触れたら良いのかわからない人に向けて、彼らをガイドするような記事を書いてきた(つもりである)。しかし、最近、それだけでは書き手としてレベルアップしないのではないだろうか?という不安に駆られるようになってきた。前述のなにか軸のひとつやふたつもった方が良いのではないかという考えもここに端を発する。要は、自分の中で、自分の文章に対する要求水準が高くなったということなのだが、この要求水準の高まりに自分の能力の成長が追いついていないというのが、現状な気がするのだ。つまり、自分の身の丈以上のことを無理してやろうとしているということ。だから、ストックが50記事もあるのに世に出せないで困っているのである。むろん、高くなった要求水準に自身の成長が追いつかない、ゆえに文章の生産ペースが以前より低下する、そして、自身の納得するクオリティの記事ができあがるまでの間をつまらない駄作を発表して埋める──そもそも、ブログ〈note〉は個人の〈日記帳〉を公開しているという側面もあり……。しかし、個人の〈作品集〉として捉えている人もおり、実態はその中間というところなのだけれども、後者のような捉え方をつよくする人に対して、駄作で間を埋めるという行為は悪手である──その結果として記事のラインナップのクオリティの平均値が落ちる、それによる読者(フォロワー)の離脱がおこる、その原因は冒頭でも述べたように単一のモノではない。これがスランプからの脱出をきわめて難しくしている要因である。主たる要因は、持病による心身の不安定さと認知能力の低下によるインプットの速度・質の低下、あとは自分が熱量を注げるだけの執筆対象を見つけられていないという事実であるが、こればっかりは時間が解決するのを待つしかないのが、悔しく、もどかしいところである。持病については、これまで散々説明させていただいたので、読者諸賢にはある程度ご理解いただけていると思うが、熱量を注げる対象が見つかっていないというのは、たぶん、この記事ではじめて言及することだと思う。

一例:Vtuberに対するスタンス/抱く気持ちの変化

具体例を出すと、Vtuberに関しては今そういう時期にあるのかなと思っている。もちろん、持病による認知機能やバイタリティの低下が第一の原因ではあるのだが、よくよく考えると以前記事を書いていたときとはVtuberに対するスタンスが少し変わった。以前は、Vtuberの記事を書くとき、「これは素晴らしいコンテンツだから、ぜひ皆さんに知ってもらわなくてはならない」という、ある種の”使命感”が自然と湧き出してきて、気がつくとPCの前に座ってキーボードを無心で叩いていた。原因が複合的すぎて自分でもなにが原因で今の状況に至ってしまったのか特定できていないのだが、以前のような沸々と自然に湧き出してくるエネルギーみたいなモノを、現在のVtuberに感じることはなくなった。配信そのものを観ようというエネルギーも低下しており、Vtuberの配信を観る頻度も以前より格段に減った。これは、Vtuberに限った話ではなく、YouTubeの視聴時間そのものが以前よりはるかに少なくなっている。だから、Vtuberのことを嫌いになった(あるいは飽きた)とか、決してそういう単純な話ではない。

そもそも自分の興味関心が惹かれたモノをある程度まとまった量の文章にするという行為も実は結構エネルギーを消費していたということに最近あらためて気づいた。近頃、病状が安定せず、それによる慢性的なエネルギー不足で思ったように記事が書けない。そもそもネタ集めをする気力が湧いてこないというのが、現状であり、これはVtuber以外のあらゆるジャンルに対していえることである。「モノゴトを楽しい!」と思うのにも、エネルギーが必要なのだ。そういう心を動かされる瞬間が最近めっきりと減ってしまった。どこで何が起こっても何も心が動かない、そういう時期なんだと思う。Vtuberの記事でも、それ以外の記事でも、実はやりたいと思っていることがいくつかあるが、どれも私の力量不足・勉強不足で実現には至っていない。そもそもエネルギー不足で勉強(インプット)ができていない。

noteに書く文章は<日記>か?<作品集>か?

おかしいなあ……。ちょっと前までは、noteを書くのに勉強なんて要らなかったはずなのに、今の私の位置づけとしては、きちんと勉強をして書くべきモノに位が上がっている。これは、先ほど述べたように、私がnoteを単なる個人の〈日記帳〉ではなく、〈作品集〉として捉えるようになってきたということなのだろうか。その割には、クオリティを追求するあまり、自分の設定したハードルを越えられない〈作品〉を世にだそうとせず、その間を駄作で埋めることによって〈作品〉のクオリティが結果として低下するという皮肉な事象が生じている。

感性で書くべきか?調査して書くべきか?

自分でもいったいどうしたらいいのかわからない。とりあえず、自分の力量をはるかに越えることをやろうとし過ぎているというのは、事実だと思う。持病による認知機能の低下に伴うネタの収集力の低下にしたがって、ネタの枯渇も起きており、こちらも由々しき問題だ。文章を書くことに対して、あれこれいろいろと思案しすぎて、〈自分で自分を雁字搦めにしてしまっている〉感はある。以前のように、自分の思うがまま筆を走らせる方が結果としておもしろい〈作品〉がかけるのか、頭を捻ってひとつ壁を越えた先によりおもしろい〈作品〉が書けるようになっているのかは正直わからない。論文を書くのであれば、まちがいなく下調べは必須であるが、noteに公表する〈作品〉にそれは必要なのだろうか。いや、もちろんできるならするに越したことはないのだけれども、今の自分の能力でそれが為せるのかという問題もある。そもそも自分は綿密にプロットを決めてから文章を書くタイプではなく、感性の導くがままに筆を走らせて一発書きしてしまうタイプなのだろうなあという気は以前からしていた。論文を書くように書くために必要な要素にはじめからアタリをつけて、先行研究や文献などを調査して情報が集まったうえで、それらを整理整頓して、自分の主張に援用するというやり方は、そもそも自分に合っていないのかもしれない。いや、たとえばVtuberの記事を書くときも、取り上げる配信者について、過去配信を観たり、切り抜き動画やwikiを漁ったり、過去にどんな発言をしていたかどうかは当然調べる。それが先に述べた「調査」にあたるのなら、私は調査をしている。ただやはり根底にあるのは、文章を書きたいと思わせる配信者の人柄であったり、配信内容であったり、そこから生じる熱量なのである。それがあってはじめて下調べしたい、この人についてもっと知りたいという欲求が湧きおこる。あくまで先行するのは、知識ではなく、熱量なのである。私がnoteにこれまで公表したVtuberの記事の多くはそうした欲求の副産物として生まれている。

良い文章を書いてメシを食いたいね(いずれは)

話を少し変える。たぶん、私が文筆で生活の糧を得るためには、以下の3つのタイプの書き手のうち、いずれかに該当する必要があると思う。

1. 綿密な下調べをもとに書く書き手

短期的にみるなら、今の書き方のスタイルを貫いた方が、良い文章が書けるだろう。ただし、私はもう少し長期的な視点で「文章を書くこと」をみている。書く内容を綿密にプロット立てして、それに必要な材料にアタリをつけて、素材をきっちり集めて、それらを整理整頓して、頭の中で論理的結合をつくり、構造体を組み上げる。こういう書き方を自分の中で確立してしまわないと、私は文章の書き手として次のレベルには到達できないだろうという思いがある。この現状としては身の丈にあわない向上心に対して、どう付き合っていけばよいのか、それが今のスランプの主たる原因であり、悩みでもある。自分で設定したハードルを自分で乗り越えられないということは、私の書き手としての能力の天井はそこにあるのかもしれない。所詮、思いつきでしかモノを書けない、その程度の書き手ということなのかなあとも思う。

2. 膨大な素材を背景に書く書き手

どうなんだろうね。私は文章を書くことに関して、プロの世界に足を踏み入れたことがないからわからないが、多くのプロの書き手が上述のような綿密な下調べをまとめる能力が必要だというのを聞いたことがある。だから、やはりプロット構築力、取材力、資料の精査能力、それらをまとめ上げる思考力は、とくに物書きとしてプロの世界に足を踏み入れようと思うのなら、必要条件なのかもしれない。一方で、モノを書くときにメモなどはとらないし、一発書きするという作家の話も聞いたことがある。こういう人は自身の人生経験の中で莫大な素材をすでに抱えていて、それらを作品に昇華できる能力のある人たちだと思う。私小説作家などは、自身の経験が主な素材になっているし、エッセイストなんかも、経験と教養が素材となっているため、必ずしも、綿密な下調べが必要ということはないのかもしれない。ただ、そのスタイルで書き続けるためには、己のなかに莫大な素材を持っていなければならない。そうでないとどこかでかならずネタ切れを起こす。だから、多くの文章の書き手は外から題材を引っ張ってきたり、取材をしたり、綿密な下調べをしたりするのだろうし、それが物書きとしての必要条件だと述べるのだろう。私は自分自身の人生をこれまで振り返ってみて、そんなに素材が豊富な人生だったとは思わない。教養や知識もそれほどない。だったら、やっぱり、文章を書き続けるためには、綿密な下調べができるようになっておかねばならないのだろうなと思って、今その練習をしている。そして、今壁にぶち当たっている。

3. なんでも素材にしてしまう書き手

あるいは、日常生活でおこることのすべてをなんでもネタにできるようになってしまえば、常に文章の素材は入ってくるので、向かうところ敵なしという状態になる。そういうやり方もある。だけど、これは誰にでもできるやり方ではない。実は私の目指すところは、この境地なのだが、どうだろう?私になどできる芸当ではないのかもしれない。だいたいおもしろい文章を書く人は、おもしろい調査内容や人生経験をもっている。たとえば、おもしろい旅行記を書く人は、だれも足を踏み入れないような辺境に足を踏み入れた経験をもっていたり、性愛について詳細な物語が書ける人は、過去にそういう人生経験をしている。作家の中上健次や現代であれば私小説作家の西村賢太は、非常に濃い素材をもっており、人生経験をもとにした小説を書いている。要は、良い素材をもっていてそれを調理して美味しい料理に仕上げるのだ。もちろん、そういう人の書く文章はおもしろい。腕の良い料理人の前に、一流の素材が用意されれば、それが最強だとも私は思う。だけれども、一流の料理人というのは、一流の素材を一流の料理にしてしまうのではなく、二流あるいは三流の素材も一流の料理にしてしまうというのが、私の持論である。おもろいことがあったらおもろい文章が書けてしまうのは当たり前だと私は思うのだ。真に巧い書き手というのは、他人から見たら大しておもしろくもないことをおもしろい物語にしてしまうのだ。だから、私は自身のプロフィール欄に「なんでもないことをおもしろく」と記載している。なんでもないことをおもしろく書くのが、真の文章力だと私は信じて疑わないし、その境地に達することができたらなと願っている。これはあくまで願いだ。なんでもないことをおもしろく書く力というのは、その人のセンスによるところが大きいし、私にはそのセンスがない可能性の方が高い(一般的にその種の才能は稀有なモノである)からだ。

ゼロから虚構を構築するセンスも方法論もない人間にとっての創作の生命線

私はゼロから虚構を構築するセンスも方法論も現在のところもっていないので(たとえば、小説を書くためには小説の〈構造〉を知っておかなければならないが、恥ずかしながら、筆者には小説を読んだ経験がほとんどない等)、現実に起きた出来事をもとにコンテンツブロックをつくって、ストーリーを構築していくというやり方しかできない。だから、上記は、現実の素材をどうやって集めてくるかというアプローチを3分類したモノである。想像の世界でモノゴトを創造していくスキルのない人間にとっては、どうやって現実から素材や感情のタネを得てくるかが創作のポイントだと私は把握している。こうやって、現実で起こった出来事から、創作のタネを拾ってくる”しか”創作の経路がない人間にとって、この唯一の経路を絶たれることは、noteレベルの<日記帳>を書くことすら難しくさせる死活問題である。私の場合は、持病の症状の不安定化が大きな要因であることが多いが、それ以外の原因で現実(外界)との接続を切断されてしまう人もいるだろう。ちょうど今の私がそういった状況で、つくりたいモノをつくれない苦しみの中にいる。どう解消しよう?創作へ至る経路を、つまり素材の調達元を(上記に挙げた以外にも)思いつく限り増やすというのは、大事なことかもしれない。

*私のやっていることが「創作」に値するかどうかは、自分でも疑問に思っているところであるから、皆さんあまり突っ込まないでほしい(笑)。

現状の数字に対する所感

2021年5月上旬ごろには、noteのフォロワーが過去最高の110人に到達した。現在は、その頃から5人減少し、105人となっている。フォロワー数が落ちている主な原因は明確で、私の文章の質が低下したこと──この「質」というのも厄介で、原則としては読者の評価するモノ=「質」ということにしているため、上記のように考えるが、私は必ずしも読者の考える「質」が、作品本来の「質」とリンクしているとは考えていない。とはいえ、読者に評価されてすらいない書き手がなにを言っても虚しいだけなので、読者評価 ≒「質」という前提のもと考える──と読者が求めるコンテンツ(特にVtuber関連)を提供できていないことが原因だと思う。実情をみると、離脱していったフォロワーさんの多くは、私の直近のVtuber記事を見てフォローしてくださった層が多いので、すぐに増えるフォロワーというのは、逆に離脱する(見限る)のもはやいモノだ。それくらいに捉えている。あまりフォロワー数に拘泥するのも、特に今の精神衛生を考えるとよくないのではないかと思い、減るのも仕方がないなあと考えることにしている。

もとより、110人というフォロワー数は、私の文章の力で獲得したモノではなく、Vtuberというコンテンツの人気に乗っかって獲得したモノであるから、今後もVtuberのことを書き続けない限りはこの数字はもっと下落していくだろう。80~90人、下手をしたらもっと減る可能性もある。もともと、今まで得てきた数字は私の実態を示すモノではなく、Vtuberというコンテンツのもつ力によって実態以上に膨張した数値である。ちょうどVtuberについて書くのをやめたときに出る数字が私の文章に対してつけられた実質的な評価なんだろうなと私は認識している。数字を伸ばそうと思ったら、またVtuberについてイチから質の高い(と読者が評価してくれる)記事を連投していけば、自然と上がるだろう。今は諸々の理由により、Vtuberについて書くのをやめている(し、書けない状況にある)が、またいつか再開するときが来るかもしれない。そうなったとしても、頂いた数字が決して自分の実力を反映したモノだという勘違いはしないようにしていきたい。

迷走する方向性

これからnoteにどんな種類の文章をアップしていくべきか、私としては上述したように非常に悩むところである。まずもって、インプットがほぼほぼ不可能な状況なので、新たなジャンルに手を出そうにも、それはむずかしいし、現状、過去の遺産を食いつぶす形でしか文章を書けていない。そうしているうちに、素材(ネタ)も切れてきた。ゆえに質の高いおもしろい文章もほとんど書けていない。自分の思ったような文章が書けないのは、非常に苦しいところである。今はなにをやっても裏目にしかでないような気がしている。もがけばもがくほど、沼の底に身体が沈んでいく。そんな感じだ。うつ病相が悪化して、書く気力が湧いてこないということを記事にしたところで、そんな記事を読みたい人は少ないだろうし、理解も得られない。その結果としての現状のフォロワー減少である。今、人生の本当に苦しい時期にあって、正直なところを申し上げると、noteなんかやっている場合ではないくらい追い詰められている。苦しみから捻り出された文章に惹かれる人は少ないだろうし、苦しみから捻り出した文章で人を魅了しようと思ったら、なんらかの加工をうまく文章に施さねばならぬだろう。生(なま)の苦しみは人を誘引しない。まずは、心身の健康を取り戻さなくてはならない。心身ともに回復した上で、前みたいにVtuberのように熱量の注げるモノに出会って、それについて書くことを楽しめたら、自然と熱量のこもったいわゆる”良い文章”が書けるようになっていくとは思う。

生きていくための手段としての文章

以前も一度記事にしたことがあるが、私はVtuberというジャンルについて書くことについては疑問をもち続けている。Vtuberというジャンルは間違いなく、ネット上での人気コンテンツであり、それについて書くことは、noteという媒体で人気を獲得するのに優位に働くことは想像に難くない。ただ、媒体ウケというのは、文章をマネタイズするうえでさほど気にしなくても良い要素である気がしている。たとえば、仮に私がVtuberについて質の高い記事を投稿しつづけて、noteで人気を博するような書き手となれたとしても、Vtuberの記事をまとめて書籍化して、マネタイズにもっていくのは権利の関係上、実質ほぼ不可能であろう。

サブカルチャーを主戦場としたライターとして活動していくのなら、その線もアリだとは思うが、これまでの私の人生経験上、サブカルチャーに関する知識の蓄積はほとんどないに等しいので、現実的な路線とはいえないだろう。「じゃあ、あなたは何についてならおもしろい文章が書けるの?」と問われれば、現時点では返答に窮するし、上述したように、私の文章には軸のようなモノがないという悩みに直結する。軸(得意分野)がないと、書籍化して、ある程度の利益を生むような(商業的価値のある)作品は書けないのだろうか?まず、自分の中に<おもしろい10万字>が書ける素材が眠っているのかな?そう考えると、私が文章をマネタイズしていくことは、不可能に近いのかなと思ったりもする。じゃあ、今noteでやっている活動ってなにか意味があるのかな?なんて思うこともある。noteじたいを有料化してマネタイズするという方向性での運用は、ほぼ考えていないが、noteを足掛かりにした書籍化や他媒体での記事の執筆などという方向性でのマネタイズは、noteをはじめた当初からある程度は意識していたことだから、それも不可能となると、私にとってnoteを書くモチベーションとは何なのだろうかという話にもなってくる。すでになんらかの実業に従事されていて稼ぎを持つ人が、完全に趣味でやるnoteとは、私のnoteは若干意味合いが異なる。もちろん、それだけで、とは考えてはいないが、生きていく手段として文章を紡いでいるところがある。作家の村上龍がいうように「作家というのは人生の最後に選択する職業ですよ」ということだとすれば、私もまずはなんらかの実業に従事して、生活の糧を得ることを考えるべきなのだろうなと思う。そうしたら、作品を1本書けるくらいの素材が集まっているかもしれない。私としては「人生最後の選択肢」として、「文章を書くこと」を選んだつもりであったが、まだその決断をするのには早かったということなのかな?現状でも働ける、なにか相性の良いアルバイトでもないかな?文章を書くこと以外にも、個人事業主として稼ぐ方法をいくつか考えてはいるが、それも実になるかな?最悪、どこか野山にでもいって、その辺に落ちてる果実でも食って生きていくか?野生のサルみたいに。日本国には生活保護という制度があるので、それに縋ることも最悪の選択肢ではあるが、考えないといけない。とりあえず、今は苦しんでいる。苦しみながら文章を紡いでいる。毎日どうやって生きていくべきかについて考えている。楽しいことを楽しい、おもしろいことをおもしろい、うつくしいものをうつくしいと思える感性をひとまずは取り戻したい。

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