コンプライアンスの有無

コンプライアンスを徹底させることで生きやすく生活水準の向上を測ろうとする日本は寧ろ、停滞しているのではないかと考える。

例えば、昨今の小学生の指導要領として名前呼びやあだ名呼びを禁じ、苗字呼びでしか呼んではいけない校則が定められているという事を耳にする。それは、第三者から変な名前呼びされることを阻止し、登校拒否や学生時代の多感な時期を差別的な価値観で植え付けないためと予測できる。
確かに一理あるがほとんどの場合、そのようなケースに対応しないことの方が多い。

コンプライアンスとは逸脱するかもしれないが、挙句の果てには小中学生の全国大会の撤廃も騒がれている。個人的にはだいぶ前から赤旗を上げている状態だが、この件に関してはボケというか大喜利を大々的に発信しているのかというくらいさすがにやり過ぎてると思う。

コンプライアンスに縛られ過ぎた今の若者は、まるで間接的な牢獄に葬られた社会を生きているようにも感じる。昔がどうとかみたいなコンプライアンスの遵守を図る人からしたら「ようやく真っ当な日本社会が確立されてきたか……」と肩の荷を下ろしたような安堵な表情を浮かべているのかもしれないが、それが果たして約1億2000万人の日本人が納得する生き方を選べているのか疑問に思うところが正直ある。

ひとつ言えるのが、いきなり赤信号にするのではなく、特に注意できる環境にいる小中学生に関しては裏で陰湿ないじめを受けない環境を備え付けるという事が重要であり、表でそのような事件がある場合は、一貫性のある筋の通った理論をもとにいじめをしない重要性を特別授業なりで小中学生の段階で頭にインプットさせることが1番の解決策であると思う。

この記事が参加している募集

振り返りnote

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?