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丸々太って、一人前になる。

 彼は、丸々と太っていた。その体格に相応しく、よく食べた。まさしく豚というにふさわしい恰幅の良さであった。
 先日、飯を共にした時にも、驚くべき勢いで食べていた。そして、卑しくも、お代わりを度々した。その度に、私はこんなにも食うものかと、内心心配しながら彼を眺めた。
 この食いっぷりだから、脂肪が腹周りに蓄積し、どんどん肥えていき、今の丸々と太った体型になるのであろう、と1人納得した。きっと早死するに違いない、と密かに思っていた。
 しかし、飯を共にした店の店主も彼があまりに旨そうに飯を食うので、悪い気はしないのであろう。彼が、今後、その体型から来る様々な厄災を、引き受けることになろうことなどお構いなしである。田舎のおばあちゃんが孫にこれでもかとご飯を食べさせる如く、店主はあれよあれよと、飯を出すのだ。彼が旨そうに飯を食う姿をにこやかに眺めているのである。そして、彼もそれを見て余計に飯を食うのであるから堪らない。
 店主は彼を愛着を込めて、「豚さん、豚さん」と呼ぶのである。彼が豚さんと呼ばれることを気にする様子もないので、私も何も言わずにいたのである。
 店主は妻に先立たれ、男手一つでこの店を切り盛りしていた。それだけでも大変だったであろうが、一人娘を育てなくてはならなかったから、余計大変であった。
 前にこの店に彼と来た時は、娘も父のこの店を手伝っていた時分であったが、第一の印象として抱いたのは、常に頬に笑みをたたえているということであった。特に、彼を見るときの笑みは、まるで愛おしいものを見るかのようだった。
 そんなだから、彼が娘を見る目も、それは卑しいものだった。娘を舐め回すように見る目は、まさしくオヤジの其れであった。横目で彼のそんな様相を目にするこちらとしては、堪らない気持ちになるのであるが、自分もひとりの人間として、彼女の美しさに目を奪われたのは事実であった。
 しかし、自分に向けるよりも、彼に対して深い慈愛を向ける事実は変わらなかった。彼女も、優しい顔で彼に「豚さん」と声をかけるのである。彼は、その度に、わざとブヒっと言ってみせ、笑いを取るのである。
 卑しいやり取りに違いはないが、娘も店主もにこやかにしているから、やはり何も言えないのはこの頃からだ。
 こんな丸々とした「豚さん」に負けるのかと落胆し、彼女はそういう性癖の持ち主なのであろうと、自分を納得させたのである。丸々と太っている彼にも、愛される権利はあるわけで、その権利を奪う道理はないに違いない。しばらくは、彼が娘を恋焦がれる姿を見ていたものだった。
 その後、娘が痩せた酒屋の長男坊に嫁いだと聞いて、彼と落胆したのである。彼は、ショックのあまり、娘が嫁いだことを受け入れられずに、いつもに増して飯を食ったのだ。その時、おかげで10キロも増えたのだ。
 娘に愛された丸々とした姿から、さらに「豚さん」らしく立派な巨漢になった。
 店主の方は、娘が嫁いだ後も変わらず店に通う彼を、これまた大切な客として扱ってくれるのである。

 さて、それから幾らかして、彼に会いに行った日のことである。私は立派に成人をして、働きはじめていた。彼はどれくらい肥えただろうが、と楽しみにしていた。そして、古き友人として、少しばかり揶揄って、一緒に思い出話に興じようとしていた。
 しかし、どこを探しても彼の姿が見当たらないのである。彼に会いに来て、彼に会えないことは初めてなので、ひどく心配になった。
 店主は行先を知っていそうだったが、教えてはくれなかった。

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