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TR科目の課題添削と芸術教養講義6

4月に提出したTR科目レポート課題が添削されて返ってきました。

とっても丁寧に添削されていて感動。指摘された点は「仰る通りでございます…!」と膝を打ちました。
それを踏まえて自分の文章を読み返してみると、チョイスする助詞はこっちの方が良かったな、とか、主語と述語が関係がよくないな、とか、自分の論を裏付けるための武器が甘いな、とか、まさに指摘通りで唸ってしまう。
もっと的確で明確で明瞭で、目に飛びこんだ時に違和感なく、スッと馴染むけど意見自体は個性がある、という文章が書けたらいいなぁと思いました。

友人で大学の教員をしている子がいるのですが、教授の助手をしながら、生徒のレポートをチェックして、生徒課ともやり取りしながら自分の研究もして、そして論文を書いて…とめちゃくちゃ大変だと聞いていました。
わたしの添削をしてくれた先生もきっと同じ様な環境だろうし、一人の教員が担当する人数も膨大だろうに、あんなに丁寧に(こちらが嫌な思いをせず、前向きになれる言葉を選びながら)添削していただけるなんて、もう、ホント感謝しかないです。
いただいた指摘を元に、試験ではもっと読みやすい文章で自分の意見を伝えられるよう善処します。


そんななか(?)、現在は芸術教養講義6のレポートに取り掛かり中です。
この単元、めちゃくちゃ面白い…!!知ろうとしなければ知らないまま、というのはどの科目にも言えることだけど、特に野村先生の「維新後近代化していくなかでの「伝統」を創られていく過程に、良し悪しの評価をすべきではない」という言葉にいたく感銘を受けました。

歴史というのは、結局その時その時の人々の選択の連続です。あとからその結果をみた時に、今の価値観や倫理観で考えると間違っている、良くない、というのはあっても、それを過程として俯瞰した時は、良し悪しの評価をくだすのではなく、ただそういった過程があったという事実を、ただ事実として認識すること。
それホントに大事な捉え方だよな、と思ったんです。

良いとか悪い、というジャッジって手軽だけど、言い換えればその事柄に対して安易にラベリングすることと同じなのかもしれない。
西欧列強と対等に渡り合うための自国ブランディングとして、「伝統」というツールを利用したことを良いか悪いかで問うのは、確かにナンセンスだわ。


高一の時の現代社会の先生が、受験用の勉強を鼻で笑い、偏差値に一喜一憂することをバカにし、同じ社会科の教師からも嫌われても全然気にしない癖しかない人だったのですが、わたしはその先生が好きでした。

特に印象に残ってる授業が、各政党の政策をもとに次の選挙の比例でどの政党に入れるかを、黒板の前に出て一人ずつ発表するというものです。でも、どの政党に入れてもめちゃくちゃその政党のことをボロクソ言う。反論してもまた反論される。

その先生の授業で一貫していたのが
「疑いなさい。騙されるな。自分の頭で考えて、偏差値で計れない知恵をつけて賢くなりなさい」
というメッセージ。
もう25年も前のことなのに、この科目を受けながら先生のことを思い出しました。

歴史が人々の選択の連続ならば、その選択をできるだけ良いものにするためにわたしに出来ることは、ちゃんと選挙に行くことだな。

と、伝統を学びながら、何故か選挙に行こう!という気持ちになりました。

脱線しまくりましたが、レポート提出頑張ります!



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