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朝焼けの餃子の中で

発達障害とよばれる者のなかには特定の領域に驚くべき特性を発揮する者がいる。そのひとつが、ゲームである。

あいつがそうだった。始めはエンジンその他基本的なことについてすらわかっていなかった。ここから説明させる気か? ヤツのそんな質問に自分はできるだけ答えるようにしていた。自分はあいつを密かにひいきにしていたし、向こうもこちらをひいきにしているようだった。お互い引き合っていた。

案の定、理解が進むとヤツはメキメキ頭角を表した。普通はここまでやらない。そんなところまで攻め込む。見たこともないような手法で斬り込んでくる。ゲームがとたんにきな臭くなる。あいつが参加するとゲームが普段の数倍盛り上がった。

ヤツが浮上していないとみんな言う「あいつはいないのか」。子供たちはあいつに相手をしてくれとせがむ。

遠足だった。自分がひいた相手はヤツだった。初めてお目にかかるヤツは小山のような体格、そんな印象。ヤツとのプレイは夢のようだった。阿吽の呼吸というものがあるのならあれがそうなのだろう。遠足が終わって別れるとき、まるで体が引き裂かれるようだった。二度と会えないなんて耐えられない。まるで遠くから密かに呼び合っているような二人なのに。

友人と餃子を食べていたレストランに救急車が突っ込んだ、あのときと同じ感覚だった。あのとき私は朝焼けの美しさに浮かれ、フラフラと街を徘徊に出たのだった。戻ってみたら、元いた場所には救急車が突っ込んでいた。病人が出た建物から2軒となりの中華屋。救急車は私のいた席の隣の隣を直撃していた。あのままあそこにいたら私の命も今はなかったかもしれない。


「人生ギリギリのところでなにがあるかわからない」

そんな陳腐な感想ではすまない、数ミリの邂逅。

あのときがそうだったし、たまたまひいたゲームの相手、それが今の私の夫だ。





  

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