健康な人にとっての死

5年後にいないかもしれないわたし

健康な人は死に直面するとショックを受ける。

しかし、そこで恐れられている死は往々にして死それ自体ではない。
むしろ、社会的時間から放り出されることへの恐怖だろう。

例えば、「孫が見届けられない」「夫より早く死んでしまう」「〇〇をもっとしていたかった」etc、etc。
これらは全て、社会的時間から、一人だけ先に脱落することへの恐怖に関する話である。

しかし、わたしは違う。
自分の死と向き合わなければならない人間は違う。

自分がいつでも死ぬかもしれない、と思っていれば、頭の中から「社会的時間」を指す時計は失われる。
年齢の感覚も、焦りの感覚も、将来の感覚も失われる。
このようにして、病気はわたしを徹底的な"現在"主義者にした。

言い換えれば、快楽主義者にした。

むしろ、死を見据える時のストレスを減らすため、自ら社会的時間を手放したのかもしれない。

それは未来に拘泥しないこと。
子どもなど、長く面倒を見る必要があるものを所有しないこと。
他人に拘泥しないこと。
ものに執着しないこと。

これらを徹底し、死の時間的な要素をすべて取り除いて、それから死に向き合ってみると、「死自体」はてんで大したものではなかった。
そうして、わたしにとって死は大したものではなくなった。
死はただの痛みに還元された。

社会的時間からの解放(という救済)

社会的時間から解放される方法はしかし、病だけではない。
モラトリアムの大学生も、精神病の患者も、みんな社会的時間から解放されている。
精神病棟は、わたしが今まで見た中で、最も時間が存在しない空間だった。

そんな停滞した時間の中にいれば、わたしは自分の死を、自分が社会の進行から取り落とされていくことを忘れられると思うのかもしれない。

まあ社会的時間に何も考えず従っていくと、「べき」「べき」べき論だけで人生終わりそうだし、元々あんまり好きじゃなかった。というのもあるかも。

時間を見放す、もしくは見放されることは、良いことも悪いこともある。

わたしは、イギリスでたくさんの旅人に会った。
旅人はみんな時間に見放されていた。自由に生きていた。
みんな、なにか社会や家庭から徹底的に放り出されてそうなったようだった。
でもそれは、「引きこもり」の対極にあるような、別方向への「社会からの逃げ」だとも思う。
逃げることは、もちろん悪いことではないけれど。

わたしは、ある学校でわたしと同じく時計が壊れている人達に会った。
何のために学ぶのでもなく、自分のために、ただ楽しいから、コードを書いていて、それが好きだと思った。

しかし、そこにいる人達の時間は、わたしと違って本当に止まっている訳ではない。
モラトリアムの大学生は自分の意思で時計を動かせる。
いつか、誰かがこぼした「普段はなんとなくタブーのようになっているから言えないが、本当は将来や就職のことがとても不安だ」という言葉が忘れられないでいる。
それをタブーにしたのは、してくれたのは誰なんだろうか。

この種のモラトリアムは、きっと健康な人からすれば死と大差ないんだろう。

その空間で本当に時計が止まっているのは結局わたし一人なんですよ。
誰もが主人公、誰もが再出発できる、誰もが人生を変えられる。
そうできないのは、ただわたし一人で、わたし一人だけがこの先病棟で暮らし、死ぬことを約束されている。既定路線。
別に何か悪いことしたからそうなってるわけじゃないけどね。

まあ、今普通に生きられてるだけでラッキーだし、いいか。
本当に死ぬと思っているやつは好き好んで学んだりしないのかもしれない。

時計の再始動

先日、その学校がキャリア支援に力を入れるということが発表され、わたしのような薄汚いドブネズミには眩しすぎるくらいのキラキラした将来設計や言葉が並んだ。
揶揄じゃない。
本当にすごいからだ。
みんながちゃんと将来の話をするようになった。



わたしは、長生き出来たらいいのにな、と思った。

人を育てて、それを輩出して、実際それが実績として見えてくるには5年も10年も15年もかかるだろう。

わたしはその未来すらきっとみんなと一緒に見られない。
それが悲しい。
見えそうな未来がとても素敵で期待してしまったからこそ、急に自分の死が苦しくなった。

もう未来なんて見せないでくれ……という気持ちでいっぱいだ。わたしって理不尽で最低すぎる。
それが嫌になってしまう自分自身が嫌だ。あの話聞いて渋い顔してたのわたし一人だぞ。当たり前だ。だって素晴らしい話だったから。

そして、あらゆるコミュニティは、時計が壊れているままでは、当然前進していくことはできない。
組織として終わってしまうので、前進していかなければならない。
終わりたくなければ、時計を進めるしかない。
そりゃそうだ。赤子でもわかることだ。
協力しますよ、みんなでがんばりましょう、と言った。

勝手にこんなこと思ってしまいマジで申し訳ない。わたしキモすぎる。何様でもない。

未来のこと

未来のことなんて何年も考えもしなかった。
今のことで手一杯だったのもある。

わたしはかなり暴力的なやり方で大学受かってるし、全然自力で自分を救済できる。
将来だって自力でどうにでも出来ると思っている。
どうにもならないのは身体だけだ。

恐れずに未来を見られるとしたらどうしよう。
何がしたいか考えてみよう。

自分のクローンが欲しい。
子どもを産み育ててみたいかもしれない。
研究してみたい。物性物理学に興味がある。
就職もしてみたい。起業もしたい。
海外で長く暮らしてみたい。病気がちだとしにくいよね。
他人を愛してみたい。今まで他人に深入りしなかったのは、面倒見きれないから、でもあった。他者に踏み込んでみたい。
他人と一緒に仲良く暮らしてみたい。

一人で死にたくない。誰がわたしの葬式やってくれるんだ?誰もいない。入院して友人と疎遠になったら終わりだ。
一緒に時間を止めてくれる人なんかいない。みんな社会にいるうちに、環境が変わり、新しい友達が出来て、病棟の中で時間が止まっているわたしのことは忘れてしまうだろう。

でもそれくらいかも。

就職できないのか、したくないのか、永遠に分からないまま、結局いつの間にか外堀を埋められて、「なるようになっている」。
でもそれでいいんだろう。とも思う。

たまに「生き方尊敬してます」と言われることがあるが、病気、死という肌感覚のために、不可抗力でこうなったにすぎないと思う。
あと、引けない性格のせいもある。衝動性ともいう。

とはいえ、おかげで5年後の未来を生きるモチベができた。

頑張って薬飲むようにしようかな。本当は毎食後指定なんだよね。
毎食後4錠2包。
もし入院したらみんなお見舞いに来て欲しいな。一人になることは怖くないけど、一人でいることは怖いな。

もし死ななかったらどうしよう?
もし死ななかったら、カレーをおなかいっぱい食べたい。あとラーメン、ケーキ、ドーナツとか。
健康な状態で食べたらおいしいんだと思う。

マジで重く、キモく、勝手なことを言ってしまい申し訳ない。
でもこの文章読まないとわたしの言いたいことは1mmも伝わらないと思う。

わたしは死と向き合うためにモラトリアムを尊んだが、そうでなくてもそれが救済になる人がいるみたいだ。
それは単に健康な人には分からないことなのかもしれない。
でもそれを理由に互いを非難したりどうこういうのは、なんというか、わたしは悲しい。



「今」のこと

が、「将来を見ること」だけが必ずしも善ではない。

生活に揉まれるうち、みんな本のことを忘れてしまった。
芸術のことを忘れてしまった。
<今ここ>という言葉を忘れてしまった。

色々な人の語り口のうまさに乗せられて、わたし自身も「今」を尊ぶことを忘れそうになっている。


わたしはこの人のツイートが非常に好きだ。

芸術の人は、よく「他者体験」という。「今を生きること」という。

わたしはそういう考え方が好きだし、オタクというのは原理的にモラトリアムをやっているのだ。

だからこそエヴァ旧劇のラストは「現実に帰れというメッセージである」と解釈された。
そう思うのは、そう見た人にモラトリアムの自覚と、それへの引け目があるからこそだろう。

自分を見据えること、いまを生きること、モラトリアムは"停滞"ではない。
悪でもない。
そしてそれは、「社会」「時間」という他人の作った大きな文脈の中にのみ自分を見ること、つまり「将来を見据える」こととは決して共存しない。

社会という文脈を放棄するからこそ見える「今」の価値は、それとは別に、ある。
あるのだ。

どんな場所にあっても、わたしはそれを尊んでいたいと思っている。

強迫的表現によってしか生まれないものの美がある。
歌うように作るのではなく、嘔吐するように手を動かすのだ。
「自分の将来」のためなんかではなく。
そういうものの方がわたしは好きだ。




おやすみなさい。


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