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「君たちはどう生きるか」ネタバレあり映画感想

宮崎駿監督の10年ぶりの最新作「君たちはどう生きるか」を観たので、感想を書きたい。同作は事前広告を一切しないというかなり大胆なマーケティング戦略とっていることでも知られており、事前情報はポスターの鳥の絵一枚のみという状態である。これから映画本編の内容にも触れて感想を書くが、ネタバレとなってしまう状態のため、その点、ご了承の上読み進めてほしい。

メタフィクション作品として読み解く

まず、「なんか似たような演出を、過去の宮崎駿監督作品や他のスタジオジブリ作品で見たな」と映画本編を見ていたときに感じた。例えば、映画冒頭で主人公の少年が母に会いに行くため駆け出すシーンは「風立ちぬ」で二郎が白血病の妻に会いに行くシーンっぽいし、画面を覆いつくすほどの大量の魚が出てくるシーンはポニョっぽいし、主人公が親族の過去と交流を交わす演出は「思い出のマーニー」でもあったし、異世界に通じる扉は「ハウルの動く城」でも見たなと。上記はほんの一部で、はっきり言って過去のジブリ作品と似たシーンを挙げるとキリがない。そこで感じたことが、セルフオマージュ的に敢えて意図的に過去のジブリ作品の要素を本作品内に散りばめたのではないかということである。

私が「君たちはどう生きるか」をメタフィクション的作品だと思う理由はもう一つある。本作のtwitterやネット上の感想をざっと読むと、「難しい」「よくわからなかった」という感想が多くある。実は前作「風立ちぬ」でも作品の難解さを指摘する感想は少なからずあった。しかし、風立ちぬでは過去のジブリ作品の演出との類似性の多さを指摘する声はほとんどなかった。つまり、本作では宮崎駿監督の手癖や演出の引き出し量の限界から過去作と似てしまったのではなく、似た演出を多くして作ったのは意図的なのではないかというのが私の解釈である。

「君たちはどう生きるか」のメッセージ

ざっくりと「君たちはどう生きるか」がどういう話だったのかというと、主人公の少年牧眞人が義理母夏子を追って異世界を冒険し、ラストに夏子と共に現実世界に帰るという話である。

そして、主人公が行く異世界の主の「大叔父様」こそ宮崎駿本人のメタファーであり、魔法などがある摩訶不思議な異世界が宮崎駿監督がそれまで作ってきたジブリ作品のメタファーであると解釈する人は多い。
その上で、大叔父様が主人公にこの世界の後継者になってほしいと言うシーンは宮崎駿と宮崎吾朗の親子関係を彷彿させるし、大叔父様の死と異世界の崩壊は「私はもうすぐ死にます。後継者もいないのでスタジオジブリももうすぐ店仕舞いです」という宮崎駿の宣言のように感じる。
映画のラストでは、現実世界に戻った人は異世界のことを忘れてしまい、異世界の物を持ち帰った主人公は辛うじて覚えている。これは、ジブリ作品も忘れ去られる過去の物になってしまうが、多少なりとも映画から持ち帰られる物をみつけてくれると嬉しいというメッセージのように感じた。クリエイターというのは、誰しも自分が作った作品が観客に影響を与えるのが嬉しいもので、それは宮崎駿も同じではないだろうか。

事前広告ゼロの意図

ここで、事前広告ゼロという何とも大胆なマーケティングについて触れておきたい。多くの人が指摘するように、スタジオジブリと監督:宮崎駿のブランド力だからこそ使える技というのは言うまでもない。私はその上で、メタフィクション的作品で、過去のジブリ作品を観た人でないと楽しめない作品だから事前広告ゼロにしたのではないかと推測している。宮崎駿監督作が世に出るのは10年ぶりのことで、小中学生は宮崎駿監督作を見たことがないという子も多いだろう。下手したら「君たちはどう生きるか」が初めて見る宮崎駿監督作品というケースも起こりえる。わけわかんない物を見させられる小中学生のガッカリ感は相当なものだろう。事前広告もなしに見に来る相当なファンのみを集めて、ジブリ作品を全然見たことがないけど広告でやっていたからなんとなく見に来たというケースを排除したのではないだろうか。(過去のジブリ作品を観てきた人なら全員「君たちはどう生きるか」を楽しめるかというと、決してそんなことはないのだが)

「君たちはどう生きるか」のわけわかんなさ

「君たちはどう生きるか」の何がわけわかんないのかを噛み砕くと、大まかに以下の2点ではないだろうか。
・あの異世界/各キャラクター設定の説明不足
・宮崎駿監督は何がしたいのか

まず、あの異世界やその世界の住人がそもそも何なのかよくわからない。
例えば「わらわら」という白くて小さいもののけ姫のコダマを彷彿させる無害な生き物が出てくる。そのわらわらが浮かび上がって外の世界に飛び出すと現実世界の赤ん坊になるらしいが、それ以上の説明がないため、わらわらが胎児の魂なのか何なのかよくわからない。
他のペリカン、インコ、アオサギ等の異世界の住人も、見終わった後も結局あいつら何だったんだろうという疑問は解消されない。
あの異世界の設定そのものがよくわからない。大叔父様が何やら特別な石を積み木のように重ねて維持しているらしいが、話が抽象的過ぎている。

異世界の構造も複雑で、主人公が異世界の中心にいる大叔父様に会うまでの移動をざっくり書くと以下の通りである。
主人公の屋敷の近くに人が寄り付かない塔があり、その塔の中で地面が液化して地下に行くと異世界に出る。その異世界で出会った人物の炎の魔法でワープすると大叔父様が住む城に出る。更に城の上部で異世界の住人も入ったことのない異空間を進んで大叔父様に会う。
どこの何の何?と感じるのも無理はない。はっきり言ってヤリスギだ。異世界の内に内に進む構図だが、異世界の全体像もビジュアル的にも認識できないことが、異世界のわけわかんなさに拍車をかけている。

そして、宮崎駿監督は何がしたかったか。
こちらもかなり難解である。私は宮崎駿監督が観客に向けた遺言のようなメタフィクション映画を世に出したかったのではないかと解釈しているが、実際のところ確信はない。誰もが楽しめる娯楽作品を作りたかったというわけではないことは間違いないだろう。

異世界の後継者のやりとり

異世界の主の大叔父様が主人公に後継者にならないかと誘うシーンが、宮崎駿と宮崎吾朗の親子関係を彷彿させると書いたが、もう少しこの点を細かく書きたい。
一連のシーンのやりとりは以下の流れである。
大叔父様が主人公に「穢れのない石がここに13個のある。主人公にはこれを積み上げて世界のバランスを保ってほしい」と誘う。しかし、主人公は「自分は悪意のある人間であり、その役目は担えない」と断る。
このシーンの大叔父様=宮崎駿、主人公=宮崎吾朗と解釈した。即ち、宮崎駿は吾朗に対して、自分の後継者になってほしいと願ったが、それはできないと吾朗が言う構図である。
興味深いのが主人公が断った点である。確かに宮崎吾朗は宮崎駿のような天才アニメ監督ではないが、吾朗監督作の「コクリコ坂から」は良い出来だったと思うし、主人公が実力不足ながらも必死に後継者としての役目を果たそうとする展開もありそうなものである。しかし、そうはしなかった。宮崎吾朗はスタジオジブリの後継者に成れなかったということではにだろうか。宮崎駿が死んだら、崩壊する異世界のように、後継者不在のスタジオジブリは潰すしかないという宣言のように感じた。

ここで、勝手にメタフィクション的に読み解いた上で、更に勝手に本作を少し批判したいと思う。
大叔父様がこの異世界をほぼ一人の力で造ったように描かれているが、この点で若干の傲慢さを感じた。異世界=ジブリ作品を作ることができたのは、宮崎駿の天才性があってこそなのは間違いないが、ジブリ作品は宮崎駿一人で成り立っている作品ではなく、多くの優秀なスタッフの労力があったからこその物である。しかし、この作品ではそういう宮崎駿を支えた周囲のスタッフの労力はオミットされてしまっている。未登場の大叔父様の異世界創造の協力者達の頑張りをねぎらう展開もあった方が良かったのではないかと思ってしまう。

最後に

多くの人が「君たちはどう生きるか」を観た後にどう受け止めたらいいのかわからないもやもやを抱えているのではないだろうか。
私自身も観た後のもやもやはなくなってはいないが、これを読んだ人のもやもやが少しでもスッキリする一助になってくれていたら嬉しい。

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