#生と死無常その錯綜
エピローグ(Kawasaki-side)
吉田ユカは、鎮静を始めて1週間後に亡くなった。
実は、鎮静薬の投与を始めた後、ユカは中々眠れずに僕らが試行錯誤することになった。ユカが不安に思っていた通り、薬の効果が出にくかったのだ。ハロペリドールでは眠れないだろうことは予測していたが、その次に使ったミダゾラムも効きが悪く、最終的にはフェノバルビタールという薬剤を使用して、ようやく眠ることができた。
結果的に、ユカにとってはつらい時間をさ
10-2:10日間の涙(後編)
(前編から続く)
ラインを引く カンファレンスが終わってすぐ、担当する看護師と一緒に、吉田ユカの病室を訪れた。ユカはやや緊張した面持ちで、ベッドに起きて座っている。
「カンファレンス終わりましたか」
「ええ」
僕と看護師は椅子を持ってきて、ベッドサイドに座る。
「それで、どうなったんですか。今日から眠れることになったのでしょうか」
僕は少し沈黙をおいてから、彼女の目を見て、ゆっくりと話し始め
10-1:10日間の涙(前編)
日曜日の朝、自宅マンションでYくんは亡くなった。
奥さんが、朝に様子を見に行った時、Yくんは眠るように息を引き取っていたということだった。
及川から後で聞いた話だが、子どもたちとは金曜日に会えたという。子どもたちを引率するのに、及川に手伝ってくれるよう、キャンプを主催する側から要請があったのだそうだ。普段は保健室利用者の自宅にはうかがわない及川だったが、Yくんたちの事情を考慮して、今回は
9:少し先の未来がつむぐもの
Yくんの具合が少しずつ悪くなっていったとき、吉田ユカもまた、体調を崩してきていた。
元々のユカと約束した外来日はもう少し先だったのだが、電話で予約を取り直したらしい。朝、外来予約一覧で彼女の名前を見つけ、「ついに来たかな」と僕は思った。
外来に現れたユカは、以前に会ったときよりさらにいっそう痩せていた。長く歩くことは難しく、外来のベッドで横になって診察を待っていた。
「先生、もう限界になり
8:もし未来がわかったなら
Yくんは、キャンプから無事に帰ってきた。
キャンプから2週間後、外来に現れたYくんは、いつもの笑顔で、
「本当に行けて良かったです。子供たちも喜んでくれて。先生のおかげで、食事も少し食べられるようになったし、元気も出たような気がします」
と言った。
右腕の麻痺も、まだ起きてなかった。放射線治療の効果はきちんと出ているようだ。
「あの子供たちは、やっぱり僕のこころの支えですね。秋になったら
6-1:安楽死の議論はやめたほうがいい ~宮下洋一に会う (前編)
幡野広志に会った後、僕にはもう一人どうしても会っておきたい人がいた。
それが、高願寺で安楽死について対談した、在欧州ジャーナリストの宮下洋一だ。
宮下は、吉田ユカがエントリーしようとして断られたスイスの自殺幇助団体・ライフサークルをはじめ、ヨーロッパやアメリカの安楽死事情を取材して『安楽死を遂げるまで』(小学館)という本にまとめて日本に紹介した方。最近は、神経難病を患った日本人がライフサーク
5-3:安楽死に対峙する、緩和ケアへの信頼と不信~幡野広志と会う(後編)
(中編から続く)
耐え難い苦痛とは何か
「先ほど話したAさんのケースの時に、医療者が悩んだことのひとつに鎮静の要件としての『耐え難い苦痛』があったんですよね」
Aさんは「耐え難い苦痛はない」と医療者に判断された。そして、その判断が故に、彼女は傷つけられ、苦しみに耐えることを強いられようとした。
「耐え難い苦痛とは何か、ということが医療者の中でも議論になることがあって、誰が何をもって判断するのか
5-2:安楽死に対峙する、緩和ケアへの信頼と不信~幡野広志と会う(中編)
(前編から続く)
幡野広志と吉田ユカ
「吉田ユカさんとは、お会いになったんですよね」
どうでした、印象は。と、聞いたところで幡野は、
「ええ、お綺麗な方ですよね」
と屈託なく笑う。こういうことを言ってもまったく嫌らしくないところが幡野の、人としての魅力なんだろう。
「ユカさんががんになって、僕のことを知って、どうしても会いたいって話だったんだけど、それだけでは会えませんからね。そしたら、撮
5-1:安楽死に対峙する、緩和ケアへの信頼と不信~幡野広志と会う(前編)
「幡野さんの病状は最近どうなのですか?」
今日もある人から尋ねられた。
「幡野さんはいまどうしていますか?」と聞かれることもある。知っているはずがない。だから僕は、彼の担当医じゃないんだっつーの……。と思いながらスマホのカレンダーを繰ると、最後に会ったのは2か月前。そしてさらにその2か月前にも会っている。そして今月はもう3回も会う予定が入っている。
なんだ、たしかに外来の患者さんと同じくら
4:スイスに行けない
宿題になっていた、吉田ユカの病名「複雑性PTSD」。初診の時に紹介状に書かれていたものの、どんな症状や病態なのかわからなかったのだった。PTSDなら知っている。日本語では「心的外傷後ストレス障害」と呼ばれ、1995年に発生した神戸の大震災のあとに大きな問題となったものだ。その定義は、国際疾病分類であるICD‐11によると
非常に脅迫的または恐ろしいイベントの暴露後に発症する可能性のある精神的障
1:止まってしまった心――吉田ユカの場合
外来に現れた吉田ユカは、透き通るような白い肌と豊かな黒髪が印象的な女性だった。
膵臓癌で抗がん剤治療中とのことだったが、パッと見た目には病を抱えているとはわからない。ただ、よく見ると少しお腹が膨れている。そこに、腫瘍か、腹水があるのかもしれない。
「はじめまして。西と申します。前医からの紹介状は拝見しましたが、今日こちらにお越しになることになった経緯をお話しいただいてよろしいでしょうか?」
2:もう一人の安楽死――Yくんの場合
「先生、抗がん剤していても、セックスってしてもいいんですよね?」
奥さんが隣にいるのに、あっけらかんと尋ねる彼に、こちらのほうがどぎまぎする。診察室を一瞬静寂が襲ったが、僕は努めて冷静に、
「ええ、大丈夫ですよ。ただ、感染に気を付けて。避妊はしてくださいね」
と笑顔で答えた。ただ、口元は少し引きつっていたかもしれない。
「よかった。ほら、そういうことって大事でしょ。でも、主治医の先生には聞き
だから、もう眠らせてほしい ~安楽死と緩和ケアを巡る、私たちの物語
僕はある夏、安楽死を願った二人の若い患者と過ごし、そして別れた。
ひとりはスイスに行く手続きを進めながら、それが叶わないなら緩和ケア病棟で薬を使って眠りたいと望んだ30代の女性。そしてもうひとりは、看護師になることを夢見て、子供たちとの関わりの中で静かに死に向かっていった20代の男性だった。
そして僕は医師として、安楽死を世界から無くしたいと思っていた。
それは安楽死制度を無くしたいという