使わない道具に意味はないのか。
普段はコーヒー淹れたり、イベント仕掛けたり、「場づくり」をしていることが目に付く「しげを」ですが、本業というか、思想や考え方のベースはこっちの『生活環境調整』だったりします。
そんなこんなで、普段と違う一面や、道具屋として関わっていらっしゃる方もなんやかんや面倒臭い思考プロセスの中を覗いて、ああだこうだ言ってみてください(他所で)。
結論からすると「ある」よね。
「ない」って場面があるとしたら、それは「意味がない」ではなくて、「意味づけがさせていない」ってことしか小さい私の脳みそでは理解ができない。あ、そりゃー前提として必要じゃないモノを買わせたり、むしろ「邪魔になるやんけ!」ってことはサービスとして成り立ってないのでそういうのははぶきますよ??
じゃぁ、お前は、本人や家族から「要らない」って言われたことないのか、って言ったらありますよ!「必要ないから要らない」「もう元気になったから返す」ってことは。でも、「必要ないから要らない」って言われる可能性なんてはじめからわかってるし、たぶんそうなるだろうってケースもあるし、「まじかぁー、必要なのにー!」って思うケースもあります。それはそれで、意味はあります。
意味が「ある/ない」ではなく、「意味付けするもの」
例えば、使わないってわかっているけど「こんなものがあるんだって認識をもってもらうこと」だったり、「まだ、これは使いたくないって意思表示をすること」だったり….、本人・家族以外のチームメンバーを状態や現在地を確認するって意味合いもあったり…、意味付けはさまざま。あのタイミングであの訪問があったから効いてきているよね、ってめっちゃあるし、むしろそういう風に訪問してますよね。
特に介護保険のレンタルや購入サービス以外のもので助かることって結構ありますし、増えてきてます。ご家族がちょっとした工夫してくれたり、買ってくれたりするってシンプルに意味付けされますよね。私にできることは購入するときに失敗しないことや、amazonやホームセンターの〇〇をご紹介したり、場合によっては買ってきたりもします。でも、それもご家族が買ってくれる、とか自分で買ったって意味付けができますよね。
道具をもっていって、特段介護保険制度の中の道具の説明をするだけでは全然ないし、むしろ、課題や目的がでてきたら、制度の中でできること/できないこと、私個人にできること/できないことなんかを考えつつ、話しつつ….。むしろ、その時の態度や言葉使いや話のグルーブや内容で印象付けしてきたりももちろんですけどします。まぁふつーなこと言ってますよね。あえてゆーことではない感がめっちゃしてきたんですが、医療/福祉現場に限らず、専門職って呼ばれる人たちのサービスってそのあたり欠落していることが多い印象はあります、相対的にね。
「いい天気ですねー」に意味ある?ない?
私自身、言葉の種類や、ジャンルなどまだまだ幅も深さも足りないんですけど、まぁ努力はしてます。最近は草むしりなんかしたり、ガーデニングのことを調べたりしてたりしたので、庭や玄関先の「花」のことを教えてもらったりして盛り上がることもチラホラ。あとは、どんな仕事をされているのか(いたのか)やどういうことが好きではないのか…みたいなことは事前にいただけたり、後からでも確認できたらデータストックしていきます。それによって言葉のチョイスや会話の構成変えたり…あ、これもなんだか当たり前すぎるのでこの辺に。
「いい天気ですねー」とかってくだらないし、それ自体に意味はないけど「今日あんまり調子良くなさそう」とか、距離感や関係性を図る大事な意味もあったりしますよね。そういうことです。
で、道具のことに戻ります。
「この手すり、あと5cmこっちにしましょ。」
「車いすの座面、あと2cm低くしますね。」
だいたいで設定してないんですよね、私たちも。んで、それって身体状況だけみて「立ち座りしやすい」ってみてるわけではないし、「出入りの時に使えるように」だとしたら「出る時と入る時どっちがリスク高い?」はもちろん考えるし、導線上邪魔にならないか、場合によっては目立たない色や嫌いなカタチなどを避けつつやってます。相談援助ってそうですよね。あーこれも当たり前だから、なんか文章消したくなってきた!!が、我慢。
使わなかった「ポータブルトイレ」
私も関わるケースが多い、いわゆる「ターミナル」といわれるケース。
癌末期など、もう最期の時が近く、ご自宅で最期まで過ごす/ 最期は病院や施設で、という方の支援に道具屋としてお邪魔させていただきます。
介護保険でのレンタルや購入サービスが可能なので、例えばベッドは1割負担だと1000円/月 - で借りられたりします(金額は種類にもよるし、負担の割合もそれぞれ)。
ベッドなどもレンタルしていてベッド上の時間が長いけど、杖や歩行器、手すりもレンタルしてトイレにも行っている。でも、やっぱりそこに行くのが難しい(転倒する、間に合わない、そこまでの耐久性/持久性がないetc)などで、据え置き式のトイレをベッドの近くに急ぎで必要になることもあります。在庫もあったりするので、それをお届けして使っていただくこともあれば、応急的に使えるもので時間を埋めることもあります。(あ、ここは制度的には衛生物品でレンタルではなく購入するものなのであまり多くは語りませんが…)
で、もちろん実際に「使わなかった」ってことは1度や2度ではありません。そのままお亡くなりになって数日そこに置いたままのケースもあれば、スペースの関係で翌日に引き上げるケースもあります(あくまで制度の話は横においてきます)。でも、それが意味がなかったとは一度も思ったことがないって話です。
そこにあることに意味がある
「まだトイレにいけるかもしれない。もしくは、オムツをするのはやっぱり嫌だ」って本人の気持ちの中で、『トイレまでは行けないけどそこにあるトイレならいけるかもしれない』って思ってくれたら意味があるし、ご家族やチーム側も『本人の気持ちをできるだけ叶えてあげたい』って気持ちがそこにはあって、お互いにその気持ちに直接じゃなくても間接的に「ポータブルトイレ」を通じて伝わるものもあるのかないのか…。あ、もちろん全てがこのケースに該当するわけでもなく、こうあるのがよいと思っているわけではないです。むしろ、「必要性がある」って依頼がある場合や必要性を感じるケースのときにただ、動くだけです。
「急いでもってきてもらわなかったけど使えなかったの」って伺うときもありますし、「2回だけなんだけどすごくよかった。ありがとう。」ってときもあります。使っても使わなくても、ご家族やチームが本人のことを考えてそこに置いたこと自体にすごく意味があります。それは本人の気持ち的にだけではなくて、ご家族が今後大切な人の死を受け入れていく中でも。
射程距離の長い気持ちを
「ありがとう」ってよく言われます。でも医療/福祉関連の人は多いと思います。でも、その「ありがとう」って言わせてない?? その「ありがとう」って言っている奥に何があるだろうって疑い深い私は思っちゃいます。どういった場面でも。
何がよかったとか、はそれぞれの感覚です。そして、それはできれば相対的なものでない方がこの場面においてはいいなぁってことはぼんやり思っています。まぁ、そもそも比較できる経験を持っていることが稀ですから。
「私含めたチームが関わってくれて、本当によかった」ってご家族が思ってくれるのは、5年か10年かもっと先かに、友人の経験談やらを聞いた時にふと「私の場合はチームに恵まれていたんだ」って思ってくれたらいいなぁっていうちょっと長いスパンなんだろうな、って。で、同時に、私含めてチームとしても「よかった」って思える振り返りをできるそんなケースが当たり前であったらいいなぁと切に思います。「そんなのって伝わらないんじゃない?」って言われたりします。でも「伝わらなくてもいいんじゃない?」って思うわけで、こっちのエゴだし、「じゃぁ、本人や家族の気持ちを全部わかってるんか??」って思ってしまうわけです。
まぁだから、自分も勉強するし、そういうチームから必要とされる立場でいるための努力はしたい。でも、自分のやりたいことを押し付けるってことはもっともしたくないので謙虚に今日も現場に向かいたいと思います。