#109 謝罪を別の感情に変えられる言語と文化の可能性

ジョジョの奇妙な冒険の第四部に出てくる小林玉美のスタンドで、人の罪悪感に付け込んで弱らせていく『ザ・ロック』というのがあります。たとえ些細な罪悪感であっても、それを増幅させることで精神的に衰弱させていくというもの。

これに対し主人公の東方仗助は罪悪感を感じない『ある状態』でザ・ロックに勝ちます。

それは『ものすごくキレる』ことです(笑)。

仗助は玉美に自慢の髪型をけなされ、それで怒り心頭になり罪悪感を感じる余地さえなかったのでザ・ロックは無効化したというのがオチ。

このストーリーでつくづく思うのは、罪悪感というのは何かの物事が発端となって物理的に生まれるものではなく、個人の捉え方に過ぎないということ。

そして、罪悪感は怒りや喜びと同じ一つの感情であり、他の感情と同時並行に覚えることは難しいということ。

常々、人間の持つあらゆる感情で罪悪感というのは必要な時以上に無駄な時の方が10倍、100倍はあると思っています。人は賢い生き物だけれど、賢すぎると不都合なものです。

嘘か本当か知らないですが、人間と同程度のIQを持つ動物もうつ病になることがあるそうです。

考えられますか?イルカやゾウも、我々と同じく資産申告や見通し不透明な経済状況に辟易しているのです!(今回のユーモアのピーク)

私達がくだらないことに罪悪感を抱き、日々の生活に悩むことは文化的に生きる高知能集団として誇りに思っていいということでしょう。とはいえ、それだけでは根本的に罪悪感をどうこうする話が解決してはいませんね。どうすれば罪悪感という私達の大敵の力を弱めることが出来るのでしょうか。

私は、不合理さを克服するには同程度の不合理さをぶつけていくことが有効だと考えています。

ジョジョの話で言えば、仗助は『ブチギレる』ことで罪悪感を感じることがなかったように、罪悪感は自我に浸っている状態である一方で憤慨するというのはある意味では我を忘れるということ。

そしてここに私達が生活するうえで罪悪感を克服する為のヒントというものがあるのではないのかと思うのです。

まあ、つまり、罪悪感を覚えたらキレ散らかしたらいい、ということになってしまうわけですが(笑) 怒りというのも全てに対し有効とはいいがたいので(怒る側も疲れますしね)、キレずに済むケースに対してはどうすればよいのでしょうか。

その答えは、今私達が住むこの国の文化が教えてくれています。

私達は、食卓でご飯を前にして、一言こういいますよね?『いただきます』と。

この言葉は、例えば魚や肉を前にすると、『命を頂きます』という意味になりましょうか。

命を頂くという行為にどういう意味合いが込められているか、『命を食べるなんて申し訳ない』って思っていただきますなんて言うでしょうか?

違いますね。『命を頂きありがとうございます』という思いこそ、いただきますに込められた真意だと私は思っています。

そしてこれこそが、文化の力が、罪悪感という負の感情を開放して感謝というより生産性のある感情を生み出した好例といえるのではと思う訳です。

怒りにしても、感謝にしても、大切なのは罪悪感そのものは一番不要な感情であり、別の感情に置き換えることで対処していく必要がある、という訳ですね。

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