会話の楽しさ

昨日初めて日記を投稿できなかった。でもできるだけ、ってことにはしているから許すことにしよう。

毎日続けることっていうのは難しい。なんで難しいかって、どれだけ自分の意思で「続けよう」と思っていても、環境によってはどうしても続けることを諦めてしまう場合がある。昨日は実際友人と一日中遊んでいたのだが、その最中にパソコンに触ろうとは思わなかった。最悪ケータイから打ち込むことはできるが、極力人といるときには、その人との会話に集中したい。

私は友達と一緒にいて楽しいと感じるのは、「運動しているとき」と「馬鹿みたいな掛け合いをしているとき」だ。

運動するときは、もうそもそも運動が好きなので、それだけで楽しいのだが、友達と一緒に競いながらやるのはもっと楽しい。運動レベルが同じくらいの友達であればなお最高である。自分は決して手を抜く必要がないし、相手も遠慮なく向かってくる。互いに全力であることが、全力で楽しむための秘訣であると思っている。

馬鹿みたいな掛け合いをするときは、高校生ごろからとても楽しいと感じるようになった。私は中学生ごろまで、ほとんど必要がなければしゃべることのない静かな奴でおよそ人としゃべるということに面白みを感じることなど一切なかった。むしろ静かであることが真面目であり、真面目であるといわれることに満足していた。

ただ、高校生になってから自分が何の面白みもない人間なのではないかと少し考えるようになった。なかなか友達の前で馬鹿をやることにも抵抗があるし、さらには口数も少なかったため、誰かを笑わせるということをした経験がほとんどなかった。ただ自分が周りと少し特異だったのは言葉遣いである。年の割に、普段の生活ではなかなか使わないような語彙を使ったりしていて、それを面白がってくれる友がいた。また自分がふざけることがないぶん、自分がツッコミ側に回ることが多かった気がする。

そうやって人と話して、互いに笑いあえるような会話をし始めた時、誰かと他愛もない掛け合いをするのが好きになった。もちろん少しは気心の知れた友人でなければそのようなことはできないのだけれど、けれども気が合う友達と掛け合いが決まった時の爽快感というか快感はすさまじく、自分に「人と会話することが好きだ」と思わせるには十分だった。

だから今では、いろんな人と、その人とだからできる掛け合いのようなものをいつも探している。いかにこの場の会話を楽しむことができるかということが常に頭を占領しているのだ。

友達と向かい合わせでいるのに、互いにケータイを触って一言もしゃべらないという光景を見るのも今では珍しくない。これも現代化が生んだ遊び方?の一つなのだろうが、私はそれをよしとはしたくない。もし相手がケータイを触るのなら、ケータイを触ることよりも、面白いまたは価値があると思わせるような掛け合いを全力で模索し続ける。そうやってコミュニケーションをとることが何より面白いと自分と同じように思ってもらうために。

3月25日

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