「自信」と「謙虚」

今日は勉強しようと思ってブックカフェに行った。やっぱり自分はどうにも人目がある場所でないとどうも怠けてしまうようで、いつもは図書館を利用するのだが、今日は休館日ということでブックカフェに。で、それなりに勉強は進んだのだけれど途中で疲れてきたので、休憩がてら軽く本を読むことにした。

読んだ本は何となく手にとった「時間術」に関する本なのだけれど、ぱらぱらとめくりながら途中でなんだか受け付けなくなってしまい、後は適当に流すことになった。受け付けなくなったというのは、その著者の自尊感情みたいなものが一つ一つの文体やら言葉選びやらにほとばしっていたからだ。一般の人がどれだけ無駄な時間を過ごしているかとか、それに引き換え自分はこれだけ生産性をあげて、いつの間にか同僚たちよりも圧倒的に仕事量を増やしつつ、丁寧な成果をあげてきたとかまあそんな感じなのである。なんというか確かに素晴らしい仕事を為し、お金もたくさん持っていて、幸福感を満ちているというのは十二分に伝わってきたのだが、本を読んだだけで、その人がいかに自尊心に満ちているかわかるってのは正直強すぎて、そこまでにはなりたくないなと。

もちろんこれは筆者の成功体験をもとにして「時間術を磨くことでどんないいことがあるか」というのを伝えるという点において非常に優れているのだろう。ただその伝え方というか、自分は決して何も間違いがないかのようなそんな姿勢が伝わってきたときに、私は受け付けられなかった。じゃあ読むなと言われればそれまでではあるのだけれど。

ただやはり似たような傾向は誰にでも見られるものであって、何かしらの成功体験を積み上げたり、自分に自信が持てるようになってくると同時に、徐々に謙虚さというものは失われてしまう気がする。

私も中学生の時は自分に自信なぞ全くなくて、コンプレックスを感じることばかりでよく思い悩んでいた。ただ今となっては自分を受け入れたというかあきらめたというか妥協したというか克服したというか、まあなんというか自分はどうしてこんなこともできないんだとか、自分はダメだとか思い悩むのことが少なくなった。そしてそうやって見切りをつけてきたことで、自分に自信を持つようにもなった。だんだんと自分にできることや、周りからどんな風にみられているかがわかってきて自分に納得できるようになってきた。

ただじゃあ自分が悩んでいたあの時ほど、自分自身に真剣に向き合い、周りの人に対して謙虚な姿勢であったかと問われると、もちろんそうだとは当然言えないわけである。確かに自分に自信を持てるようになって、新しいことができるようになって、考え方も変わってきた。しかし自分に焦点が当たれば当たるほど、利己的になって他者への感謝とか思いやりとか、協力することの大切さとか、そういった小学校の道徳で習うような、当たり前にして大切なものを切り離していってしまっているような。それこそ、私が中学生の時に深く悩んでいたのは人間関係だった。自分と他者の関係性や、他者と自分を比較していた。自分にあきらめをつけるというのは、結局そういった他者との関係について思い悩むのをやめてしまったということでもあるのかもしれない。

自分に自信がないのは良くない。けれど自信をつけるのに謙虚さを引き換えにするのはもっと良くないと思っている。たとえどれだけ挑戦し、成功し、新しいことを成し遂げ、周りに「すごい」と言われようと自分の深く見つめなおすことを忘れてはいけない。自分は何ができて何ができないのか。何が欠けていて、何が足りているのか。謙虚さを失うときは、きっと自分を見誤るときだ。

3月30日

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