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ちいさひこ(#シロクマ文芸部)

「冬の色即是空を探しているんですよ」
「えっ?」
 ぼくの声が、この冬いちばんのからっ風にちぎれる。

 その日は期末試験で、学校は午前で終わっていた。
 テスト期間中は部活もできないし、音楽室も使えない。最終日までまだ三日もある。思いっきりトランペットを吹きたくてたまらなかった。オケ部に所属しているけど、ふだんは練習熱心でもないし、どちらかというとサボることしか考えていない。けど、ほら、禁止されると、むしょうにやりたくなるじゃん。トランペットケースを背負って登校すると、「テスト期間中は部活できないぞー」と週番の先生からよけいな注意を受けた。そんなことはわかってるってんだ。
 テストが終わると、チャリにまたがり阿字川をめざした。
 寒い川原に人なんていないさ。音をはずしても睨むやつもいない。冬の空に向けて、消音器なしで肺が軋むぐらいトランペットを吹き鳴らす。うん、最高だ。首にきつく巻いたマフラーが口をふさぐ。土手に続く坂道をいっきに駆けあがる。
 向かい風に顔をそらした。
 茫々と煤けた川原の葦の群れのはじから、インディゴデニムの三角錐型の何かが突き出ているのが視線の端をかすめた。妙に不自然な光景。人が倒れているのか。土手に自転車を止め、斜めにスニーカーをスライディングさせながら駆け下りた。背中のトランペットケースが尻を叩く。

 介護施設でパートで働く母から「お年よりの徘徊には気をつけて」と言われている。「このあいだもね、認知症のおじいちゃんが施設から脱走しちゃってさあ。ひと駅向こうで発見されたのよ。電車に乗ろうとしてくれたからよかったけど、あのまま徘徊続けてたらどうなってたか」
 だからね、とみそ汁をよそいながらキッチンのカウンター越しにいう。
「道端で座りこんだり、うろうろしてるお年よりを見かけたら、だいじょうぶですかって、声をかけてあげて」
 
 両膝を地面につけ、尻を直角三角形の頂点にして、人(たぶん男)が葦原の奥へと突っ伏している。動く気配がない。
「だいじょうぶですか」
 尻に声を掛けるって変なものだな。
 聞こえていないのか、無反応だ。死後硬直じゃないよな。恐る恐る斜めに下がっている腰のあたりを軽くたたきながら、「だいじょうぶですか」ともう一度声をかけた。
 そのとたん、小山のように尻だけ突き出していた人物が、「うわあ」と振り向いてのけぞり尻もちをついた。
 ばきばきっ。葦が幾本も折れる音がした。
 白髪まじりのちぢれ髪は襟足で一つにまとめられている。セルロイドの黒縁眼鏡が鼻からずり落ちそうだ。老人と呼ぶには若い。教頭先生ぐらいか。ブルゾンの両袖に泥がこびりついている。くしゃくしゃのハンカチで眼鏡の泥をふき掛け直しているが、手も泥まみれだ。十分に不審者だが、徘徊老人にはみえない。
 ――通報したほうがいいのか?
 ぼくがスマホを手にしているのに気づいたのだろう。
「冬の川原でうずくまっていれば、行き倒れか、不審者か、死体かと思うよね。驚かせてすまなかった」
 男は手の泥をジーンズの太ももでぬぐい、尻をはらいながら立ち上がる。ブルゾンの内ポケットをさぐり名刺をさしだす。
 《N大学理学部准教授 茅部かやべ創平》と印刷されていた。
「きみは、北高の生徒かな」
「北高2年3組の森嶋優斗です」
「ここで何をしていたか。不審を解かねばならないね」
 気ままに吹きつけるからっ風が、茅部の顔面におくれ髪を貼り付ける。
「森嶋君はカヤネズミって知ってますか?」
「ネズミ……ですか?」
「大きさが、そうですね」といって茅部は親指と人差し指を広げる。
「成獣でもこのくらい、そうだなヤクルトくらい。日本で最小のネズミです。わたしはカヤネズミの研究をしていてね。こうした葦やススキなどに巣を作るんですよ」
「カヤネズミを探してたんですか?」
「いや、きょうはカヤネズミではなくて……」
 茅部はにんまりと笑う。

「冬のシキソクゼクウを探しているんです」
「えっ?」
 意味がまったくわからない。新種の生物か?
「そのシキソクなんとかって」
「色即是空ですね」
「それ、なんすか」
「色即是空 空即是色って、聞いたことありませんか」
「あ、お経」
「般若心経というポピュラーな経典の一節で、仏教の真髄ともいえる教えを表しています」
「お経を失くしたんすか?」
「いえ、物としてのお経は関係ありません」
 茅部の説明は要領をえない。というか、ぼくの頭脳と噛み合わない。
「わたしが勝手に色即是空と名付けただけです」
「はあ?」
 ますますわからない。風に翻弄される枯れ葉のように混乱する。
「色即是空というのは、この世のすべてのものには実体がない、という悟りでしょうか」
 新手の宗教勧誘だろうか。
「人って目に見えない存在を『無い』ことにするでしょう。空気がいい例です。この透明の空間には何も無いと思っているが、実際には窒素や酸素、アルゴン、二酸化炭素、水素、メタンなど様々な物質が漂っている。ミクロの目で見ようとしないと見えない。我われはふだん、これらの物質の存在を無視している」
 勉強から逃れたくて川原に来たのに、なんで化学の話になるんだ。
 茅部とかいう大学教授は、ぼくが聞いているかどうかなど、おかまいなしに語る。
「存在しているけれども見えない者、見ようとしなければ見えない者という敬意もこめて、わたしは彼らを色即是空と呼んでいます。民俗学的には『ちいさひこ』と呼ぶ人もいますね」
 化学分子の話から、どうつながるのか。さっぱりわからない。
 ぼくの疑問と不審を見て取ったのだろう。
「実際に見てもらうのが手っ取り早い。ちょっと待ってください」
 止めるまもなく、茅部はさっきと同じ姿勢で葦原に頭を突っ込む。
 直角三角形を形作る尻を眺めながら、ぼくはため息をつく。
 なんでこんなことになってしまったんだろう。
 ぼくは川原に何をしに来たのだろう。
 背中でトランペットがかたかた揺れる。風が冷たい。

「写らないとは思いますがね。まず、スマホをしまってください」
 葦の茂みから生還するなり、茅部が命令する。
「彼らは絶滅危惧種です。生存を脅かさないためにも、絶対に撮影したり、画像を投稿したりしないと約束してください」
 ぼくに拒否権などない。しかたなく、うなずく。
「ほら、これが色即是空、俗に言うちいさひこですよ」
 お椀のように丸くした両の掌をぼくの目の前で開ける。
 掌には何もない。枯れ葉一枚ない。
「ちいさひこ?」
少彦名すくなひこなは知っていますか」
「昔話に出てくる小さい神様?」
「一寸法師のモデルになった神様ですね。ガガイモの実に乗って大国主命おおくにぬしのみこととともに国造りを行ったと『古事記』や『日本書紀』に記されています」
 それが実在すると、この掌に居るというのか? 
 茅部の泥だらけの掌に目を凝らす。
「ちいさひこは、少彦名の子孫です。彼らは神話の時代から日本に生息し、我われの隣で暮らしてきました。見えませんか?」
 ぼくは頬を引き攣らせながら首を振る。
「見るコツをつかむには時間がかかります。見えるように磁石を合わせてもらいましょう」
 お願いできますか、と茅部が掌に向かって言う。
 すると、ぼうっと何かが形をなす。
 ぼくは目をこする。
 身の丈5センチほどの小さな人が現れた。髪も肌も枯れた葦の茎のような色をしている。ズボンの上から履いている編み上げブーツまで同じ枯れ色だが、ふわふわの白い綿毛のような防寒着を羽織っていた。
 弓を手にし、矢はまっすぐにぼくを狙っている。
 ぼくは思わず両手を挙げて後ずさりする。
「見えたようですね、彼らは狩人です」
「これが、ちいさひこ?」
「彼らは季節や住む場所によって衣服だけでなく、髪や皮膚の色まで変えます。周辺の環境に合わせ擬態するんですよ。今日は、冬姿に変化した彼らを観察していました。見るのに意識を集中することも必要ですが、そもそも、非常にうまく周囲に擬態するので、見ることに慣れた目でも彼らを見つけるのは至難の業です。このとおり、今は枯れた葦の色をしていますが」
 と言いながら、茅部はちいさひこをジーンズのポケットに座らせる。
「ほら、ここだと」
 数秒と掛からず、髪まで藍色に変化へんげした。
 ぼくは大きく開けた口を閉じることもできない。
「ここに居るとわかっていても、これでは見つけられないでしょう」
 茅部が誇らしげに笑う。
「見ようとしないと、見えないもの」
 ぼくは反芻するように繰り返す。
「そう。そういう存在が居るのです。音だってそうです。人間の耳は自分が聞きたい音しか拾わないようにできています。聞こうとしないと、聞こえない音。知ろうとしないと、わかりあえない。そんなもので世界は満たされているんですよ」
 ちいさひこは、器用に茅部の服を登って肩に腰かける。黒いブルゾンの上だから、たちまち黒一色に変化する。
「森嶋君は高校二年生ですね。志望校はもう決めているのですか?」
 唐突に話が飛ぶ。
「N大の理学部はどうですか。わたしと一緒にちいさひこ、色即是空なる存在を観察してみませんか」
「勉強が苦手なんで」
「研究は勉強ではありません。好きなこと、興味のあることを追求するのが研究です。つまり、見えないものを見ようとすることです」
「見えないものを……見ようとする」
 ぼくはちいさひこに視点を合わせる。ちいさひこが、にっと笑う。

「背中のケースに入っているのは楽器ですか?」
 また、話が飛ぶ。
「トランペットです。川原で吹こうと思って」
 背からケースをおろして開けると、ちいさひこが飛び降りてきた。
 笛を吹くしぐさをする。ぼくがうなずくと、ぱっと葦の茂みに消えた。
 ちょっと残念に思っていると、葦の切れ端みたいなものを手にして戻って来た。
「お、葦笛ですか。ちいさひこと森嶋君のジャムセッションか、いいねえ。一曲、聴かせてもらえませんか」
「ぼく、彼らの曲を知りません」
「セッションなんだから、なんでもいいでしょう」
 ちいさひこが、うなずいている。
「じゃ、クリスマスも近いんで『聖者の行進』とか? あ、日本の神様に西洋の神の曲はまずいか」
「神の世界に国境も宗派もありませんよ」
「それも、そうすね」
 マウスピースを嵌めて、トランペットを高く冬空に向ける。
 ぼくの肩でちいさひこが葦笛を構えていた。

<了>

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※文中の「ちいさひこ」は、私の造語であり、民俗学的にそのように呼ばれている事実はございません。ご了承ください。

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今回も、またまた、ギリギリに。
小牧部長様、いつもありがとうございます。
どうぞよろしくお願い申し上げます。


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