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夢のあとさき(#シロクマ文芸部)

 ――『逃げる夢の法則』というのを知っているかね。
 消えかけの燭台の炎のような声が、店の奥でゆらめいた。
 そこだけぼうっと微かに白く光の粒が滲んでいる。
 けっして明るくはない戸外から飛び込んだぼくは、ほとんど明かりのない仄暗い店内に目が慣れるのに数分を要した。

 なぜそんなことになったのか、わからない。
 コベントガーデンでアンティークの露台をひやかしながらマーケットのにぎわいを楽しんでいた。ロンドンの秋は駆け足で過ぎる。マーケット前の広場では、早くも木枯しが落ち葉をくるくると踊らせていたが、マーケットは混みあっていて、その熱気でむせかえるほどだった。
 不意にねっとりと纏わりつくような視線がぼくに向けられていることを首筋のあたりに感じ、振り返った。見知った顔はない。観光地としても人気のスポットだけに、耳になじみのない言語も聞こえる。ぼくに向けられる特定の何かなどあるはずがないのに、首筋のあたりが冷やりとする。
 ジャケットの襟を立てて外へ出た。うす曇りの広場にも人は多い。首筋をなでるのは冷たい風なのか、鋭い視線なのか。できるだけ目立たぬよう、人波を縫うようにして急ぐ。走り出したい衝動をかろうじて抑える。
 どこの角をどう曲がったかわからなくなっていた。気づいたら、セント・マーティンズ・レーンを逃げるように速足で下っていた。気のせいだ、たぶん、いやきっと。恋人のミリアムがよく、あなたって神経過敏症ね、と呆れる。その症名が医学的に合っているのかどうかに疑問の余地はあるが、たしかにぼくは音や匂いなどに過敏なところがある。けれど、誰かの執拗な視線を感じたことなどこれまでなかったし、だいたい、そんなものテレパスでもないのに、どうやって感じるというのだ。肩越しに振り返るたびに、柿色のグレンチェックの鳥打帽がちらちらと目に入る。
 セント・マーティーズ・レーンには通りに面して、パブやベーカリー、カフェや書店など石造りの建物が似たような軒を並べている。どこか店に入ろうと物色していたからだろう。店と店のあいだに、間口が一間ほどの空間が口を開けているのに気づいた。隣の建物の二階が天井になっているパッセージだ。左の壁にブリキのプレートがあり、<グッドウィンズ・コート>と記されていた。パッセージの向こうに路地が続いている。
 そうか、ここがグッドウィンズ・コートの路地か。
 十八世紀の佇まいの面影を残し、かのダイアゴン横丁のモデルにもなったという。
 仄暗いパッセージを抜けると、細い坂道の両側に煉瓦造りの建物が連なっていた。ジョージア様式のゆるやかに婉曲した格子のボウ・ウインドウ。時計が止まったような路地裏だった。緑の木製の扉に嵌めこまれた擦りガラスには『Cauldron(鍋屋)』とあった。扉の左上のガス燈が明滅する。
 パッセージ超しに大通りをうかがい、不審な影がついてきていないことをたしかめてから、扉を押した。
 ガラン、ガラン。
 ドアベルが鈍い音を立てた。
 店は奥に長く、両の棚には大小さまざまな鍋やフライパン、ボウルにざる、ケトルやレードルなどが雑多に並び、埃の積もったドライフラワーが吊るされていた。見上げると天井に小さな明りとりの天窓が一つだけあり、淡い光が力なく射しこんでいる。
「やあ、いらっしゃい。見かけぬ顔だな」
 ようやく室内の昏さに慣れた瞳をじっと凝らすと、奥のカウンターテーブルの上に小さな椅子があり、太ったネズミが一匹腰かけていた。
 老ネズミは足を組み替えると、「逃げてきたのかね」と尋ねた。
 ぼくは恐る恐る戸口を振り返る。擦りガラスに通り過ぎる影が映った。
「どうやらおまえさんは、逃げる夢につかまったようだな」
「逃げる夢?」
「夢というか、実態のない不安だ」
「不安?」
「ああ、将来への漠然とした不安、自らに対する失望、認められたいという焦燥……そんなものだ。影のように迫ってくる。おまえさんは、影から必死で逃げようとする」
「不安が夢だと?」
「『逃げる夢の法則』というのが、ある」
 老ネズミは細いパイプに火をつけ一服すると、細く長く煙を吐き出す。
「夢と不安は表裏一体なのだよ」
 ぼくは、ニンフのようにゆらゆらと立ち昇る紫煙を目で追う。
「不安から逃げているつもりが、いつのまにか夢を追っている。必死になって夢を追うから、背後に不安がつきまとう。メビウスの輪の上をぐるぐる巡っていると考えればよかろう」
「夢を手に入れれば、解消されるのでは?」
 老ネズミがまた一つ煙を吐く。
「もっと大きな夢を追いたくなるもんじゃろ。際限がない。回し車と同じじゃ。そこにあれば、回さずにはおれまい」
 老ネズミが大きくパイプをひと振りすると、カウンターにネズミ用の回し車が現れた。 
 カタカタカタカタ。
 軽快な音を立てて――回していたのは、ぼくだった。
 ぼくは、ぼくは、ハツカネズミだったのか!
 そんな、そんな――。

 カタカタカタカタ。

 とぎれることなく回し車の音が、頭の上でこだまする。
 遠のいていた意識が、白煙のなかから戻ってくる。
 カタカタカタカタ。
 重たい瞼を開ける。
 描きかけのスケッチブックが、顎の下でくちゃくちゃになっているのが目に入った。
 カタカタカタカタ。
 音のする方に顔を向けると、窓辺に置いたケージの中で、先日買ったハツカネズミが回し車をカタカタと回していた。

<了>

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お話に描いたグッドウィンズ・コートは、『ハリーポッター』シリーズのダイアゴン横丁のモデルになったともいわれる路地です。


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今週も、また、滑り込みでした。
小牧部長様、よろしくお願いいたします。

 


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