【連載小説】「北風のリュート」第2話
第2話:空を泳ぐもの(1)
【2030年3月25日、G県鏡原市】
ああ、今日も泳いでいるな、とレイは曇り空を見上げる。
春休みになってレイはほぼ毎日、看護師の母が自宅に隣接する『小羽田医院』に出勤するのを見届けてから、制服に着替え自転車にまたがる。四月から高校三年生になる。理系コースを選択しているが、医者になれと強制されたこともないし、病院は五歳下の弟の櫂が継ぐだろう。母は、レイが嫁に行きさえすればいいと思っている節がある。友人すらまともに作れないのに、恋人や結婚など想像しただけでめまいがしそう。進路とか志望校とか、みんなどうやって、やりたいことを見つけるんだろう。
春休みの特別補講は口実にすぎない。授業は受けているので、嘘をついているわけじゃないけど。それよりも、と荷台を振り返る。楽器ケースがしっかりと固定されているのを確認しペダルを踏みこむ。音楽室でこれを弾く。今はそれしか目的がない。納戸からこっそり持ち出していることは、母には秘密だ。
秘密といえば、とまた空に目をやる。
空を見上げるときだけ、顔を隠している前髪がほどけ、レイの切れ長の瞳があらわになる。肩までのストレートボブの髪が風にそよぐ。
すいーっと、何かが目の前を通り過ぎる。
空を眺めるのはレイにとって呼吸をするのと同じで癖だ。
レイには幼いころから誰にも言っていない秘密がある。正確には、言ってはいけないと諦めた秘密がある。
花曇りの空に今日も、輪郭だけの透けた細長い魚のようなものが、何匹も泳いでいる。透明な太刀魚みたい。小学一年の夏休みに海辺の水族館でリュウグウノツカイという深海魚の剥製標本をみた。あれがいちばん近いと、レイは思っている。晴れた日は太陽光がまぶしくてよくわからないが、曇り空だと彼らがよく見える。
レイにとっては見慣れた日常の光景だけれど。
空を泳ぐ魚は自分にしか見えないと気づいたのはいつだったか。
夕暮れの道を母とさんぽしていた。オレンジ色の空がシャーベットみたいでおいしそうだった。記憶にあるいちばん古い夕焼け空だ。「お魚」と空を指さすと、「お魚みたいな雲ね」とお母さんは笑った。あれは雲なのか、と幼心に刻んだ。
別の記憶では、母が誰かと立ち話をしている腕を引っ張った。「お魚の雲が泳いでる。ママ、つかまえて」と母の首筋を横切る魚を指さすと、変なことを言わないの、と小声で叱られ、乱暴に手を握られた。痛かった感覚の上澄みだけが残っている。
人はできごとを積み重ねて、何かを悟るのだと思う。
決定的になったのは、幼稚園の年長組でのお絵描きだ。顔の大きなお父さんとお母さんと自分を画用紙の下半分に描いた。右上には太陽。頭の上に水色のクレヨンで細長い魚の雲をたくさん泳がせた。隣で描いていた真帆ちゃんがのぞきこんで、変なの、と指摘した。
「お魚は、お空じゃなくて海を泳ぐんだよ」
真帆ちゃんの発言に周りの子たちがいっせいにレイの絵を見て「変なの」「魚は海にいるのに」と攻めたてる。援護射撃をとうぜんとして真帆ちゃんは、ほらね、と勝ち誇っていた。
「お魚は海にもいるけど、真帆ちゃんの上にもいるよ。今、沙也ちゃんのほうに泳いでった」レイは真帆の頭上を指さし見たままを告げただけなのに、「嘘つき」の大合唱がレイを取り囲んだ。
翌日はもっとひどかった。「嘘つきは近よらないで」「嘘つきが来た」と避けられた。無視すれば良かったのだ。でも、五歳のレイは、嘘をついていないのに、嘘つき呼ばわりされることを受け入れることができなかった。そこにいるよ、嘘なんかついてない、と繰り返した。逆にどうして、みんなは「いない」と嘘をつくのだと納得がいかなかった。「嘘じゃない」と主張すればするほど、のけ者にされた。なつき先生をつかまえて「先生、そこにお魚がいるよね」と縋ると、先生は困った顔をして首を振った。
みんなには空を泳ぐ透明の魚は見えていないのだとようやく悟り、レイは口を閉ざした。
絵にも描かなくなった。「お魚の雲」と指さすこともやめた。
その一年後に、リュウグウノツカイに出逢った。
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