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【連載小説】「北風のリュート」第11話

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第11話:謎の増殖(1)
【4月23日 小羽田医院】
 はあ、はぁ、はあ。
 小羽田おわだ雅史は両膝に手をついて息を整え、スポーツドリンクをあおる。
「よしよし、おまえもな」
 足もとでへたっている老犬のボッシュにも水分をとらせる。早朝の龍源神社の境内には誰もいない。犬の散歩も兼ねたジョギングは雅史の朝のルーティンだ。おまえも俺も、歳だな。日ごとにきつくなるよ。ボーダーコリーのボッシュは、娘のレイが小学校二年生のときに知人のブリーダーから譲り受けた。
 レイには不思議なところがあり、幼い頃は魚が空を泳いでいると言っていた。かわいい想像力を微笑ましく思っていたが、小学校入学と前後して、ぷつりと口にしなくなった。友だちとも遊ばなくなり、殻に閉じこもるようになった。心配した妻の美沙が近所の子どもたちを家に招いても、遊びの輪に加わらずぼおっと空を見ている。おかしくなったのではないかと気を揉む妻に、無理に人と交わらせてもかえってストレスになると諭し、代わりに犬を飼うことにした。
 生後三か月で引き取ったボッシュは、レイの唯一の友だちになった。朝夕の散歩もレイが欠かさなかったが、雅史がジョギングをはじめると宣言すると「毎日続けられるようにボッシュも連れていったら」と朝の散歩だけ譲ってくれた。
 玄関の土間でボッシュの足裏を拭いてやり、雅史はシャワーを浴びる。
 雅史は自宅の隣で『小羽田医院』を開く内科医だ。
 
 最近、抜けない小骨のような違和感がある。医者の勘といってもいい。
 かかりつけ医を看板にしている町医者だから、歯科と眼科以外の領域はたいてい診る。手に負えなければ、鏡原中央病院に紹介状を書く。患者は八割がた高齢者だ。 
「なあんか息が苦しうて、頭がふらふらするとですよ」
「熱は36度か。平熱だね」
 門野多恵は何かと症状を訴えて三日と空けずにやって来る老女だ。多恵の足で十分ほどの自宅から手押し車を押しながら通う。歩行に多少の困難があり耳も遠くなってはいるが、年齢のわりに健康なほうだ。
「血液にちゃんと酸素が流れているか計るからね。指を出して」
 耳もとでゆっくりと話し、指先をパルスオキシメーターで挟む。95%か。ぎり正常値内だ。喉に腫れはない。喘鳴もなし、痰が詰まっているようでもない。胸に雑音もない。
「めまいはする?」
「頭がふらふらしよるとね」
「汗はちゃんと出てる?」
「汗臭いかね。すまんねえ、先生。歩いて汗をかいたば」と言いながら、ごそごそとバッグをひっかきまわしタオルを探す。
 発汗もある。顔色も悪くなく、火照っているようでもないから、熱中症でもなさそうだ。頻脈ぎみだがこれも許容範囲か。おそらくいつもの不定愁訴だろう。
「呼吸が楽になる気管支拡張剤で様子をみましょう。痰を切る薬も出しておくよ。水分をよくとって。暑かったらクーラーをつけてね」
 息苦しさが治まらないようならまた来て、と言いかけ苦笑する。多恵なら明日にでもまた別の症状を訴え受診するだろう。
「おだいじにね」
 看護師の妻が待合まで連れていく。
 多恵も含め、春先から息苦しさを訴えるお年寄りがじわりと増えている。ゴールデンウイーク前なのに、すでに気温は30度を超える日が続く。高齢者は体温調節がうまく機能しない。暑熱順化も鈍い。こもるような暑さを息苦しいと感じているのだろう。多恵のように他に目立った異常がないのに息苦しさを訴える患者が増えている。共通しているのはめまいと息苦しさか。高山病みたいだな。平地で高山病にかかるはずもないが、念のため医師会に懸念だけは報告しておくか。
 
 三日経っても多恵が来院しない。珍しいこともあるものだと妻と話していた矢先だった。前夜に多恵は呼吸困難で救急搬送されていた。


続く

 

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