見出し画像

【連載小説】「北風のリュート」第24話

前話はこちら

第24話:赤の正体(3)
 赤いテニスボール大の球体は、1センチに満たない無数の鱗のようなものの集合体だった。
 研究室の壁際に設置されたクリーンベンチに手を突っ込んで、白衣の男性がそれを一つひとつ分離させていた。
「レインボー、ちょっと来て」
 作業を肩越しに見ていた流斗が振り返る。
「こんなかに風蟲ワームはいる?」
「これと、これと、これと……」レイが5つ指定し、「別のシャーレに分けてもらうことはできますか」と白衣の男に依頼する。
 N大学理学部微生物研究室の徳山助教は器用に、レイが示した数ミリほどの埃のようなものを別のシャーレに分ける。レイは研究室の天井を見上げ軽くうなずくと、小分けされた5つのシャーレをクリーンベンチの真後ろにあるステンレスの実験台に並べる。研究室の入り口近くに、池上副司令を筆頭に小野寺一曹、田畑二曹、立原三尉の自衛官らが居並んでいる。レイはそちらにちらりと視線を走らせてから、シャーレの蓋を取った。
「何をしとるんだ、彼女は」
 池上副司令のダミ声を無視して、「いるの?」と流斗がレイの耳もとでささやく。レイは無言でうなずき、魚の動きを目で追う。
 空の魚が一匹、すーっと実験台まで降りてきて、左から二つ目のシャーレに口をつけた。
 やっぱり、とレイは聞こえないほどの声でつぶやくと、「これです」と左から二つ目のシャーレを指す。
 流斗はレイが示したシャーレを取り、徳山に「これと、その赤いのと、実体顕微鏡の映像をモニターに映して」と要請する。
「タッチーお手柄だよ。風蟲も採集できてる」
「ほんとですか」
「ああ、これで比較分析できる」と迅の肩を抱く。
 迅は起立の姿勢のまま、ちらりと右端の池上副司令をうかがう。

 徳山は流斗の大学からの友人だという。
「こいつは、微生物オタクなんだよ」と紹介された。
「おまえは空オタクだろうが」と徳山もやり返す。
 じゃれ合う研究者たちを、自衛官らが定規のように整列して眺めている光景のちぐはぐさに、レイは吹き出しそうになって困った。

「まず、こちらを」といって、流斗は迅が撮影した動画をスクリーンに映し出す。降下直前から動画は始まった。雲中をゆっくりと降りていく。
「そうです、こんなふうに雲中を浮遊していました」
 小野寺と田畑が前のめりになる。
 厚い雲の中を赤く丸いものがぷかぷかと漂っている。
「これは、いったい……」池上が低く唸る。
「そしてこれが」流斗は顕微鏡にプレパラートを置きピントを調節する。
「動画に映っていた赤い物体です」
 スクリーンに映し出されたのは、赤いラグビーボールの中央がわずかにくびれたような形状で、両端から細いべん毛が1本ずつ蠢いている。
「表面はセルロースに覆われているのか、けっこう硬いですね。鱗みたいな感じです。これが集合して球体を作ってます」
 徳山がざくっと説明する。
「ぱっと見の推論ですが、内部に多数見える球形は卵かも。せいぜい1センチ程度のこいつらが集合してテニスボール大を形成するには相当数を要します。これだけの卵を抱えているなら増殖の速さも理解できます。繁殖力はかなり高いでしょう」
 研究室が静まり返る。流斗も腕を組んでスクリーンを凝視している。
 食べたいのだろうか。スクリーンに投射されている赤い異物を、透明な魚が口先で突っついている。その度にスクリーンが揺れる。プレパラートの周りにも小型の魚が集まっている。先ほど風蟲のシャーレを開けたときは、おもむろに一匹が近づいてきただけだった。明らかに魚たちの反応が異なる。流斗の袖を引っ張って小声でそのことを伝えると、「それは興味深い」と漏らし、「ああ、なんでぼくには見えないんだ」と頭を掻きむしる。
 徳山はプレパラートを交換する。
「こちらは小さくて色が薄いので倍率をあげます。大きさは赤いものの半分以下。10分の1程度でしょうか」
 淡い空色のゾウリムシに似た細くて扁平な微生物が映し出された。せわしなくべん毛を動かしている。ゾウリムシは体内器官がが認められるが、これは輪郭だけで中はからっぽに見えた。
「さっきのとは違うが、これは?」
 池上がスクリーンに歩み寄る。
 徳山は首を振って、流斗に視線を向ける。
「こいつは風蟲ワームと言います。ただし、わかっているのは名称だけ。ぼくも、今初めて実物を目にしたところです。無生物の可能性もありましたが、少なくとも自律移動可能な生物であることが確かめられました」
「その風蟲とやらは、赤い異物と関係があるのか」
「この二つの微生物の関係性がわかれば、鏡原の異常気象の謎も解け、対策も立てられると考えています」
「こんな小さなものが、異常気象を引き起こしていると?」
「エアロゾルという雲の種はもっと小さいですよ。それが、空を覆うほどの雲に発達するんです」
「鏡原の異常気象は、曇りが続いていることと、異常気温じゃないのか」
「おっしゃるとおり、表に現れている現象はその2点。では、なぜ層積雲が晴れないのか。レイさんが初めて赤い異物を空に認めた時期と、層積雲の滞留が始まった時期とがほぼ合致しています。関係があると考えるほうが合理的です。なぜ赤い物体はとつぜん鏡原上空に現れたのか。それを解く鍵が、赤い物体と風蟲の関係にあるのではないかと考えています」
 何かが池上の胸をざらりと撫でる。
 危機に対する勘だろうか。地震でもない、山火事でも、豪雨でもない。雲の中の小指の先ほどもない異変。だが、距離にして90キロほど、車で2時間もかからない名古屋の空と鏡原の空が、これほど違う。空を預かるものとして看過できない異常だ。頭の奥でハザードランプが点滅する。だとしても、自衛隊に何ができる? この男は何をしようとしている。


25話に続く→

 

この記事が参加している募集

#創作大賞2024

書いてみる

締切:

サポートをいただけたら、勇気と元気がわいて、 これほどウレシイことはありません♡