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平和とは。(#シロクマ文芸部)

「平和とは……、清純な処女みたいなもんさ」
 腰に提げたステンレスのスキットルの蓋を歯でこじ開け、干からびた喉にバーボンを流し込む。苦い酔いを噛みしめる。なんでそんなことが口をついたのか、たちまち後悔が滲む。錆びた風が粉塵を巻きあげる。
「処女……ですか」
 アッシュがまだそばかすの残る丸い鼻をふくらませる。四十過ぎのおっさんが何を言ってるとでも思っているのだろう、若者特有のしらけた侮蔑を口もとに微かに漂わせる。世界のことをまだ何ひとつ知らないのに、もうすべてをわかっている気でいる、青臭くってかわいい傲慢さ。俺はこいつにエラソーに語る言葉なんて欠片も持ち合わせていないけれど、幻想くらいは払ってやるか。まあ、それもいっときの気の迷いかもな。バーボンが腹にしみわたる。
「一見、崇高で一点の穢れもなくて、俺たちバカな男が死力を尽くして守らねばと勘違いする、そういう象徴さ」
 アッシュがよくわからないという顔で目をしばたく。
「手に入れたと思ったらすり抜ける。その後ろには死屍累々たる男どものむくろが転がる。俺たちは何を追っていたのかも忘れて、たおすか倒されるかまで無意味な争いを止めない。ようやく手にしたとたん気づくのさ。それが幻だったことに」
「それは、処女がですか……それとも、平和のことですか」
「処女はたとえだ。平和という、崇高にみえるヴェールを被った中身のない大義名分のことさ」
 俺はスキットルを逆さに向けて振り、最後の一滴を喉で受けとめる。
「正しすぎる正義はたやすく人を殺すだろ。それと同じさ」
 アッシュはまだ納得がいかないのだろう、眉をしかめる。
「平和なんて、あると思うか?」
「我われは昨日、長きにわたるX国の圧政から平和を勝ち得たばかりではありませんか。だから、隊長も勝利の酒をあおっているのでしょう」
 平和の勝利を微塵も疑わない目で見返す。
 俺たちは、と苦い悔恨がはらわたを掻き混ぜる。平和の御旗の下に、虚構の理想をこれっぽっちも疑わないアッシュのような若者を、ありあまる情熱ごと巻き込んで戦場へと追い立てた、ひとつの駒として。
「なあ、平和とやらを手に入れるために、俺たちはどれだけの殺戮を繰り返した。どれだけの仲間が、家族が、子どもたちが死んだ」
 瓦礫の山のてっぺんに誰が立てたか、連合軍の平和の御旗がひるがえっている。爆撃機は去った。もう地下の塹壕に身を潜めなくてもよい。
 だが、これが……これが、俺たちが望んだ世界か。窓ガラスの一枚も残っていない住宅。上半分が吹っ飛んだビル。砕けたガラス。割れたウエハースのように不規則な残骸をさらすコンクリートの壁。その下で折り重なって息絶えている人の群れ。埋葬が追いつかず放置された焼け焦げた人びと。腐臭がはびこる。しかし、もはやその臭いさえも日常となった。麻痺した感覚を取り戻すのは容易ではないだろう。
「犠牲は……犠牲はありましたが、おかげで平和を達成できたじゃありませんか。平和こそ、人類がめざすべき理想ではないのですか」
 見かけだけ立派な大義名分は人を狂わす。
「ならば、どうして神は世界をこんなふうに創った」
 何を言いだすのだと、アッシュは目を剥く。まっすぐな抗議の視線を正面から受け止める。ここで放り出すわけにはいかない。 
「生き物は争うように設計されている。見てみろ。鳥も、サルも、アザラシも、自らの遺伝子を残すためにオスどうしで争う。ときに死闘となる。なぜだ」
「メスが強いオスをパートナーにするからでしょ」
 何をあたりまえのことを、とアッシュがぷいと横を向き、フェンスによりかかる。
「なぜメスは強いオスを求める」
「それは……強くなければ生き残れないから」
「な、世界は争いを前提に創られてんだよ」
 アッシュが瞳をこわばらせて向き直る。
 隠された世界の真実に、たった今気づいたかのように。
「平和なんてまやかしさ。それを忘れるな」
「自分にとって大切な人、それだけで手いっぱいのはずだ」
 黒い編みあげブーツの足もとで、淡い黄のデイジーが揺れていた。

<The End>

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