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G7サミット

今回は、1月に『ばぁばの独り言』で登場してもらった、ホーム利用者Aさんの戦争体験をお話しします。

この方はいつも明るくてホームの人気者のおばあちゃんです。
私たち職員は利用者さんをお名前で呼ぶのが基本なのですが、
この方は、名前で呼ばれると、
「なんやよそよそしいなぁ~。ばあちゃんと呼んでやぁ」と仰るので、私たちはあえておばあちゃん、と呼ばせてもらっています(勝手に)。

おばあちゃんは、テレビを見るのが日課で、特にお笑いが大好き。
彼女が笑うと他の利用者さんもつい、つられて笑ったりして、ホームの空気が一気に明るくなるので、職員の間でも好印象です。

利用者さんは昼食後、皆さん各々思い思いに過ごされます。
リビングで過ごされる方もいますし、居室に戻られる方もいます。


先日、リビングにそのまま残ってテレビを見ていたおばあちゃん、

「戦争はアカン!!原爆なんてとんでもない!!」
急におばあちゃんが大きな声を出されたので、私は昼食後の片付けの手を止めて彼女の方を見た。
ホームに入居されてから、私が初めて見た、険しい表情のおばあちゃん。

おばあちゃんはその時、ニュース番組がG7サミットを取り上げているのを見ていたのだ。

「アカン!アカン!
どんな理由があっても戦争はしたらアカン!!
原爆なんてもってのほかや!!」

おばあちゃんの細い身体の、どこからこんな大声が出るのかと思うほど強い口調だった。

「原爆記念館、行った事あるか?」
おばあちゃんは誰に話すともなく続けた。

昭和20年、当時10歳のおばあちゃんは三重の出身で、空襲の中逃げ惑った話しをしてくれた。

空襲警報のサイレンの音は今も耳に染み付いとる。
あのサイレンだけはいまだに身震いがするのや。

焼夷弾で火傷した人が海にも河にもプカプカ浮いとんのやさ。
みんな痛くて熱いもんやから、熱い熱いと言いながら海や河に飛び込むのやさ。
ほんまに 地獄やった。

資料を調べてみたら、昭和20年の7月28日から29日にかけて、米軍が初めてM47焼夷弾を落とした三重県下での死傷者は6500名以上と記録されている。
三重県は原爆の直接の被害はない。
にしても、おばあちゃんの話してくれた地獄絵のような戦禍は想像を絶する。

私はいとこが広島に住んでいたので、子供の頃、原爆記念館を訪れた事がある。
強烈な印象として記憶にあるのは、原爆投下後、歩いている女の子の手指の先に手袋のようなものがぶら下がっている写真、だったか、再現された人形だったか。
それは手袋ではなく、ズルズルと剥けたその女の子の皮膚だとの事。
もう1つは、人のお尻のような形の影が石段に黒く残っている写真。
爆心地から260メートルのところにあった住友銀行広島支店入口の石段。
セ氏4千度の熱線で出来た犠牲者の影だそうだ。(中國新聞 原爆記録写真参考)

日本も日本帝国と名乗っていた頃、アジアの国で繰り広げた悲しい歴史があります。

「ばあちゃんのお父ちゃんはな、
今でこそ言えるけどなぁ」と、
おばあちゃんは小さな声で付け加えた。
「後でお母ちゃんが教えてくれたんや。
『ほんまは行きとうないんや。』って言うとったと。
それでも、万歳!万歳! て、みんなで送り出したんや。」

来月、おばあちゃんは88歳を迎える。

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最後までお読みくださり、有難うございます。
人各々のお考え、信条によって受け取り方も違うかと思います。
異論、ご意見、お叱りなどありましたら、宜しくお願いいたします。

こきあのこ

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