視線の先のジャングル_2023/5/7


昨日はドンヨリーヌな話題だったので、
今日は心の底からゲラゲラ笑える話をば。
(ところで妖怪ウォッチが10年前って正気ですか?)




突然だが、
片付けという行為がこの上なく苦手である。

今も目の前に何かを書きっぱなしのルーズリーフやメモが散乱しており、
冬にお世話になったニット帽や手袋が所在無げに置かれ、
読みかけの書籍たち(さまざまなサイズのもの)が積まれている(さまざまなサイズなので積まれているだけでは綺麗にならない)。

いま住んでいる部屋に一度だけ親が訪れたことがあるが、その時の感想が
『こりゃあんた、病気になるわ…』
であった。そしてそのお言葉の通り、昨年末に体調を崩し入院した。
(※現代の医学的見地から、部屋の汚さと入院の原因に直接的な関係はないと考えられる)

足の踏み場もないほど、とまでは言えないし、
ゴミの類が散乱して部屋中がクッサくなっているわけでもないが、
まあ、汚い部屋である。
想像できたでしょうか。
おい誰や想像したくないって言ったヤツ

何故これほどまでモノが整頓されずにあちらこちらに散乱されたままなのか。
その理由は明白である。

整頓をしていないからである。

いやいやそりゃ当たり前だろとお怒りの皆様方。
ちょ、ちょっ、落ち着いてくださいヨ。
いまから深掘りしますカラ。

うぜー

知りたいのはここだろう
___何故、モノを整頓しようと思わないのか。




ここからは、私がどれだけ筋道立てて述べたところで
読み手のこれまでの人生経験がバイアスをかけて
『こいつは何を屁理屈こねとんじゃ』と
憤りの感情を芽生えさせてしまうかもしれない。
もう、それは仕方ない。だって人生は巻き戻しできないから。

ただ、どれだけ屁理屈に思える主張でも
筋道が立っていれば立派な理屈である。
正直な話、私は何故『屁理屈』という言葉が
悪い意味で用いられているのかがわからない。
もし仮に、とある屁理屈(A)により憤りを感じる人物(X)がいたとして、
理論Aが論理的に抜け目のないものであったならば、
XがAに対して憤ってしまう理由は、AではなくXの方にあるのではないか。
理屈が屁理屈なのではなく、聞く人の側が屁人(へんちゅ)なのではないか。
完璧な理屈を前に己の理解力の乏しさを痛感し、
憤る他なくなっているだけではないのか。

___などという前置きはここまでにして、
個人的な『モノを整頓しない理由』を以下に述べようと思う。

結論を言うと、

整然と並べられているさまより、
ランダム性をもって存在しているさまの方が
好ましいと感じるから

である。

例を挙げる。

どこかへ出かける際、
予定表というものをきっちり作成するタイプですか?
それとも目的の場所だけココ、ココ、と決めて
訪れる時間や空き時間の過ごし方はその時の気分で決めるタイプですか?

絶対後者。
絶対、ぜったい後者。

自分の行動をチャート化したくない。
それじゃあまるで、いまの自分の気持ちに沿って、というより、
過去の自分の記録に従って動いているみたいじゃないか。
主体が自分の体じゃなく予定表にある、みたいな。
行動原理のいちばん根っこが脳味噌じゃなく予定表という紙切れにあるような感覚。
自分のそのときそのときのひらめきではなく、予定表に書かれた簡単な規則に動かされているような感覚。

要は、ルールが明確なものに魅力を感じないのである。

部屋の片付けも同じ。
モノが或る一定のルールのもとに整然と並べられているさまを、
どうしても心地よいものとは感じることができない。むしろ怖い。
散らかっている方が落ち着くのである。
身の回りのものは、自分で整頓しようと思わなければ整頓されないが、
自分で散らかそうと思わずとも散らかる。

もう、モノが散らかりたいと願っているとしか考えられない。




ただ、ランダム性が高い状況が良いことばかりではないのは事実だ。
短所の一つとして、再現性の低さがある。

ある本を読み、読みきれなかったから中断し、少し時間が空き、
さてもう一度読もうかなと思ったとき、
本の置き場所が決められていればスムーズに読書を再開できる。
決めていないと、「最後に読んだのは寝る前だから…枕元にあるか?」という推察、そして実際の探索を経ないと読書にありつけない。
空いた時間が短ければ推察も容易であり、すぐに目的の本にありつけるだろうが、
面倒なものは面倒である。

___いいですか、私はこのレベルの話をしています。

ただし『再現性が高い』ということはつまり
『同じことを延々と繰り返すのに有利』ということである。
同じ本を何十回も読み直すことに意味はない。
本というものにおいては、片付けの有用性のバフが切れるのは相当早い。

一方、こんな自分でも
『これの片付けはちゃんとしといた方がいいよなーと思うモノ』
がある。
それは、食器と肌着。

これらの共通点は“毎日、盲目的に使わなければならない”という点である。
つまり、再現性の高さが効果覿面なのだ。
悔しいが、このふたつについてはなるだけ片付けようと心がけている。




ランダム性を孕んでいた方が好ましい、ということは
言い換えれば“自分が考えもつかないような物事に興味を抱く”ということである。
じゃあドッキリとかサプライズとかはどうなのか、と聞かれれば、
そういう問題じゃない、と答えざるを得ない。
我々は、『ドッキリ』がどういうものか、『サプライズ』がどういうものか、
もう既に知ってしまっている。
そして、ヒトという生き物はクリエイティブでおかしな種なのでいつかドッキリやサプライズなどの奇行を実行してしまう可能性がある、ということは予想できる。
故に、どんなドッキリもどんなサプライズも、真の意味でのドッキリ/サプライズにはなり得ない(抜き打ちテスト理論)。

考えついてしまうので、興味を抱かない、と。

ランダムな配列、混沌とした情報の海から、
不意に、ぽっ、と出るような事実。

そういうのが、面白い。


___ところで妖怪ウォッチが10年前って正気ですか?

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