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好きはどこまでいっても好き

コルクラボ内での掲示板では、お題が週1回でる。今月のテーマは、あたらしいコルクラボの行動指針にそっている。そこで書いたことを元にもうすこし、思いを巡らせてみる。

自分の安全・安心をしろう

私がこれまでとってきた行動パターンについて

行動規範がしめされて、それに沿って行動すると仲間になるみたいなことをずーーっと繰り返してきた。
それが当たり前だと思っていたから。
学校で先生が言うことが一番正しいと思っていたら、

こうあるべしみたいな姿が示されていて、部活で試合に勝つ、クラスで仲良くなる、会社でどうふるまうなどなど。20代までは、ずーっとこの形で動いてきたと思う。勝手に自分で決めた正しさの枠から外れないようにして走ってきた。無理に無理を重ねて、息苦しく感じて、意識の枠にがんじがらめになった。

意識の枠から外れてたら、ラクになったけれど、一方で自分を責めていた時期もあった。
責めることも疲れて、その正しい枠をゆるめることにした。

それ以来、その反動なのか、同調圧力が少ないところ。
そういうふるまいをしてもいいけど、していない人に対して
それを強要するような空気感が出ていないところに、最近の私は、安全安心を感じている。

好きとおすすめのちがい

私は、正しいかどうかより、好きか嫌いかで行動している。

○○が超好き!。〇〇を超おすすめ!。

パッと見、似ている言葉じゃんと感じた。その想いがぐぐーんと膨らんで伝えられたら、どう受けとるんだろう。

「好き」は、どこまでいっても、「超絶好き」になっても微笑ましい。

私の「好き」は、まるでビーズクッション。好きのレベルが上がると、ビーズクッションがどんどん大きくなる。体の重みで沈むクッションに包まれるように、自分のペースではまっていく。

「おすすめ」ってちょっと違う。そのビーズクッションをそっと渡されるのか、どーんと投げられるか。想いが一方的だと、こっちにググンと刺さってくる。

「こうしたほうがいいよ!」が、「こうするべきだよ!」になったときに感じる圧ってなんだろう。おすすめ!が強くなると、超絶おすすめから、べき!になってるかもと感じている。

だから、「べき」があふれる空間になると、ちょっと息苦しくなって、すっとシャッターを下ろすようになった。それが、私の安全・安心の守り方。

好きはどこまでいっても好きのままだから、これからも私の好きなことをここに書いていくよ。


書き続けるとどんな景色が見えるかなぁと、7月半ばからまたせっせと更新することにしました。
noteの更新回数を二重目標でセット。
週4回、最低でも週1回でいくぞ!おー!。

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