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境界線はあいまいなままでも進む

期待値はとにかく大きかったから

こんな風に思っていたのは1年前。コルクラボに参加できることになり、その説明会の前日のツイートだ。

そして5ヶ月後の11月末。コミュニティ内での掲示板で、あなたにとってのコルクラボとは?というお題に対して、こんな風に書いていた。

コルクラボは、私にとっては、まだわからないもの。月額で支払っている金額も、そう安くはないので、気持ちは、コルクラボは高貴な遊び。 まだ言葉にできない可能性を秘めているようなもの、まだその姿は見えず。大きな象を、あちこちから眺めて、これってこうかな?でもまだわからないなとぼんやりと捉えている状態。

それなので、ここってこうだよーと説明して、他の友人を巻きこめるかというと、そこまでの咀嚼ができていない。ので、リファラルできてない。もうちょっと、ここで漂ってみます。

また数ヶ月経って、これかな?と見えてきたら、続きを書きます。こんな宙ぶらりんの人もいるという表明です。

なんだこのテンションの落差は。高貴な遊びだなんて遊んでもいないくせに、と今なら思う。

年が明けてすぐに、自分自身の足元が崩れ落ちた。1月のはじめに、チワワのちゃあが旅立った。同じころ、5年ほどいたオンラインサロンから離れることにした。
喪失感と虚無感が、やるせなさと怒りに変わっていくのを肌で実感した。noteを書くことで、気持ちの整理をしていった。

コルクラボで何が具体的にどうあったというのではない。犬を亡くした悲しみをそこで声高に書いたわけでもない。ほどよい距離にいてくれた。
ただ、コルクラボがあってよかった。上り調子じゃないとき、転んで泣きたくなったとき、そこで泣かなかったとしても、そんな居場所があるとわかるだけでいい。

前回はムリで、今回はできたこと。ようやく友人をリファラルとして声をかけた。保証はできないけれど、もしかしたら合うかもしれないよと。

端っこがどこにあるのか、歩き回ってみて、境界線があるようなないような感じかな。歩くほど、その地図は大きくなっているような気もする。

日々、わたしの中でのコルクラボがアップデートしていく。

#コルクラボ #日記

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