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親を三人見送った年~ブログとともに
今から7年前の2017年。
私は親を三人見送りました。
2月に、自分の父。
4月に、夫の母。
10月に、自分の母。
それぞれ、亡くなり方も違うし、弔いの方法も「無宗教」「仏式」「キリスト教会」とそれぞれ違いました。その時々に書いていたブログ(note以前のもの)も載せながら、3人のことを偲び、振り返ってみようと思います。
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1.父の場合
ガンでした。亡くなる数年前から、体調は優れず、入退院を繰り返していました。亡くなった後に書いたブログです。
2017年2月25日
「父を見送って」より
久しぶりの更新です。九州に帰っていました。私事ですが、父を見送ってきました。
実家にいた3日間、実にたくさんのことがありました。
その2週間前、父は入院中の病院から一時外泊しました。食事もろくにとれないくらいに、かなり衰弱していたのですが、何とか帰宅でき、母ときょうだい3人で食卓を囲み、歌を歌い、一晩過ごしました。
その時に、食事を食べさせ、薬を飲ませ、着替え、トイレに行かせ、という介護を私がさせてもらいました。「上手だね」と家族に言われましたが、元介護職ですもの。役に立ちました。
父に、「お父さんの世話ができてうれしかったよ」と言うと、父も「私もうれしかったよ」と言っていました。
「お父さん、ありがとうね」と、一番言いたかったことを言うと、父は黙っていました。
答えは期待していませんでした。
その2週間後、父は旅立ちました。
(ブログ終わり)
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父は生前から、「お葬式は要らない」と言っていました。
「葬儀は、お母さんときょうだい3人だけで行なうこと。孫も来なくていい」
そう書いた遺言の手紙をもらいました。
亡くなった後、父の意志通りに、お寺さんやお経もない自宅での弔いです。
近所の方には来てもらって、平和を願い続けた父が好きだった、ジョン・レノンの「イマジン」を流しました。
いとこが来てくれて、短いお経を上げてくれました。いとこの母、つまり叔母はお寺の出身で、それでいとこはお経が読めるのでした。
そのお経を聞いたときに、私の心は何だかとても落ち着いたのです。すーっと心が軽くなった気がしました。あれは何だったのでしょうか。お経の力だったのでしょうか。
父の意志通りにお葬式ができたことは、家族も納得できて、良い見送りだったと思います。
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2、夫の母の場合
夫の母とは、しばらく一緒に暮らしていました。病院や施設に入っていても、近くでしたからブログにもたくさん登場しています。
亡くなったときのブログです。
2017年4月13日
「桜の季節に旅立つ」より
夫の母が96歳で天寿を全うしました。医師から、「今夜あたり危ないかも」と言われて3日。何も食べられず、点滴もできず、酸素だけでした。
最期は下顎呼吸で少し苦しそうな息でしたが、それでも穏やかな3日間だったと思います。
人が亡くなると 家族はあわただしいです。葬儀屋さんに電話し、打ち合わせなど。
子供夫婦〔私達と義姉夫婦〕で静かに見送りました。お通夜に、長女家族が、葬儀に叔父といとこが来てくれて少しだけにぎやかになり、やはりそれはありがたいことでした。
あまり長い年数ではなかったですが一緒に暮らしたので、あまりいい嫁でもなく心穏やかではないこともたくさんあったのですが、96歳なので大往生なのですが、義母の、人や親せきを大切にする礼儀正しいところや、テレビの前で相撲や歌番組を見ながら大きな声で、笑ったり歌ったりするところが好きだったものですから、さびしい思いがあります。
晩年、療養病院に入院し、あまり見舞いにも行けず寂しい思いをさせたという申し訳ない気持ちもありました。
「今頃、亡くなったお父さんや子どもたちやおばさんと会って、『もう来たんね (鹿児島弁)』などと話をしているかなあ」という話をすることは、別れの寂しさを紛らわせてくれるものでした。
お骨上げの時に、人間は自然に帰るのだなあと思いました。
(ブログ終わり)
*****
義母の場合は、普通の斎場で、通夜とお葬式を行ないました。義母が一人暮らしを切り上げ、我が家にやってきて以来、お参りに来ていただいているお寺の住職さんにお世話になりました。
このご住職は、自分だけではなく、家族もお経を一緒に読むように言われます。お盆などのお参りの時、義母はいつも、詩吟で鍛えた大きな声で、般若心経を唱えていました。
それは夫と同時に、幼くして亡くした息子ふたりに向けて唱えていたものだと思います。
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3.母の場合
母が倒れたのは、父が亡くなってから、1ヵ月しか経っていませんでした。すみません、そこから書かせて下さい。
2017年3月29日
「母、倒れる」より
実家の母が倒れたと知らせが来ました。父が亡くなってから 1か月しかたっていません。
朝方、弟から連絡があったときは、本当とは思えず、また寝ようとしました。詳細を聞いたのが、午前4時。そこから起き出し、急いで支度をして5時半。
外に出ると、また薄暗い中、空にはもう消えそうなくらい薄ーい三日月が見えました。あまりにも状況にぴったりで、あまりにも美しい月でした。
母と電話で話をしたのが1週間前。父〔夫〕のおまいりに来てくれた人が持ってきてくれたお菓子が「食べきれないから手伝って」と言い、「なんぼでもいいよ。会社に持っていくから」と話をしたのです。
その何日か後。お菓子は届きました。いつものように、手紙が入っていて、いつものようにラップとか海苔とかも入っていて、でも、仕事が忙しかった私はお礼の電話をかけていなかったのです。
そのことが一番に頭に浮かびました。
しまった。また先送りしてしまった
「職場の人が、ここのお菓子はおいしい」と喜んでくれたよと伝えていない」
私には、物事を先伸ばしにする悪い癖があってそのことで何回も「しまった」と思ってきたのです。
最大級のパンチが来ました。
病院で手術前の母に会いました。静かに寝ていました。あまり苦しそうでなく、穏やかそうだったのが救いでした。
ひたすら姉弟と待ちました。
手術時間6時間余。医師から「目的は達成しました」と告げられました。
まずは一安心です。
明日仕事のある私はいったん帰ることにしました。しばらく待っていましたが、ひょっとしたら面会はできないかも、と勝手に思ってあとは姉と弟に任せて病院を後にしました。
電車に乗っていると「会えたよ」という姉からのメールが届きました。
しまった。もう少し待っていたら会えたんだ。またやってしまった。おっちょこちょいと思いこみ。
でも、その時に思ったのです。
お菓子のお礼が遅くなったのも、手術後の母に会わないで帰ることになったのも、母は赦してくれるのではないかと。
それは私の甘えで、言い訳かもしれません。
でも、母と私は深いところでつながっていてそして、絶対に赦してくれている。そう思えたのです。
キリストやマリア様のように。
母はクリスチャンです。あまり熱心ではないと言っていましたが。私はクリスチャンではありません。キリストやマリア様を思ったのはさっきです。
母は、少し回復し、手足を動かせるようになりました。
まだ人間でいてください。
(ブログ終わり)
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半年間、闘病しましたが、意識は戻らないまま亡くなりました。そのときのブログです。
2017年10月27日
「ひとつの時代が終わる」より
闘病中だった母が亡くなり九州に向かっています。覚悟はできていました。
でも、その数日前から様子を知らせてくれていた弟のショートメールに気がつかず、亡くなったという電話を受けて、初めてメールが来ていたことに気がつきました。
一番苦しかったであろう最期の時に、離れていても一緒に苦しんであげられなくてごめんなさい。
そう思いました。
悔しかったです。
なんで、RメッセージとかSメッセージとかしょうもない(スミマセン)のはしつこいくらいに知らせが来るのに、なんでショートメールは来たことがわからないのか
ドコモに行って、何でやねんと聞いたろと思いました。
いえいえ、私がいけないのです。
おばあちゃんがいて、父、母がいた時代がありました。
父を見送った時は、母がいました。今回は、子どもたちと孫で母を見送ります。
(ブログ終わり)
*****
母は、あまり熱心でないクリスチャンでしたが、お茶当番とか、ボランティァは一生懸命やっていました。誰かのために動くのがとても好きな人でした。
その教会でお葬式のミサは行なわれました。たくさんの人たちが来てくれました。母のエピソードを語ってくれた外国人の神父さん、教会の信者さんたち、親戚の叔父、叔母。孫も遠くから駆けつけてくれました。
久しぶりに会えて、たくさん話をしました。葬儀がなければ会えなかった。
讃美歌を歌い、キリストのみ元へ、みんなで見送りました。
3人の中で、いちばんたくさんの人に見送られました。人に迷惑をかけるのを嫌がる人でしたから、「みんな忙しいのに、ごめんなさい」と謝っていたかもわかりません。
母は突然倒れたので、何も言葉を交わすことができないままでした。何も伝えられないままでした。
それはやはり残念なことでした。たとえ、先ほど書いたように、何もかも分かってくれて、赦してくれていると信じられても。
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4.お墓もそれぞれ
あの年は、喪中ハガキに3人の名前を書きました。こんなこと、あまりないよなあと思いました。
お墓もそれぞれです。
母は、父と一緒ではありません。夫婦仲が悪かったというわけではありません。生前、母の希望でした。実家の両親、きょうだい、そして自分の姉の夫も一緒のお墓です。本当にそれで良いのか、母に確認できないので、きょうだいで話し合って決めました。
お墓について。義母を納骨したときのブログから。
2017年5月23日
「おばあちゃんの形ある最後」
お墓で納骨の儀。石材店の方が、大きな日傘など準備をしてくれていました。骨壺から白い袋にお骨を移して納めます。
そのお骨を見たとき、「ああ、ばあちゃんだ」と思いました。
火葬した時、「ああ、亡くなった」と思いました。今度は、さらに、この世からあの世に行くのだと思いました。「有形・・・形あるもの」から「無形・・・形のないもの」へ。
白い袋に入ったお骨を一人ずつ胸に抱き夫がお墓に収めました。
このお墓の下で、亡きじいちゃんと、亡き息子たちに会い、そして、魂はあの世の悠久の空へと昇っていくように思いました。(ブログ終わり)
それから一年半。母のお墓参りの時のブログから。
2018年3月29日
「思い出をたどるドライブ」より
お墓参りに九州に来ています。姉弟と待ち合わせてきました。私は納骨には立ち会えなかったのです。
母の眠っているお寺は、実家のすぐそばです。鎌倉時代に建てられた由緒あるお寺です。
新しいお墓があるところは比較的新しい空気がありましたが、境内のあちこちに、はるか昔からそこにおられたであろうお地蔵さんや地面の苔などがあり、気持ちがとても落ち着きました。
「お母さん、とても良いところにおられますね」と語りかけました。
母の眠るお墓の墓誌には小さい頃からなじみのある、祖父母、母の姉妹や弟などの名前が刻まれ「にぎやかだろうな」と思われました。
おまいりが一通り終わって、お墓の裏に回り、南京鍵を開け、中を見せてもらいました。お墓の中は薄暗く、その中にお骨が置かれているのを見て私は思わず「お母さんはここにいない!!」と叫んでしまいました。
自分でも予想しない感情のほとばしりでした。なんでだったのだろう。暗かったから?暗いなかに置かれている「母」が可愛そうに思われたから?
わかりません。
千の風の歌には「私はそこにいません」と歌われます。骨室(?)には小さな丸い窓が開いていました。もしここに眠っているなら、母がこの窓を出入りして大空を飛び回っていたらいいな。
お墓の扉を開けた時、イモリが飛び出して走っていきました。私は「お母さんかも!」と思ってしまいました。
安らかに、懐かしい家族と眠っている母は幸せなのでしょう。
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この時の事を、後日、いつもお世話になっている住職さんに、「母のお墓に母はいないと思ったのです」と話してみました。
「千の風の歌もありますが、飛び回っているというよりそこらあたりで見守ってくださっているのではないでしょうか」とお話してくださいました。
お墓には故人がこの世に生きていた証があります。お骨は「形」として確かに存在しています。〔土に還ることもありますが〕
だからお墓に行くと確かに会えるのです。亡くなった家族を思って手を合わせること。それがいいのだなと。そこにいるように話ができたり、お仏壇をお参りするのとはまた違って、お墓参りも良いものだなと思うことができました。
そう言いながら、義父母の方は近いのに、めったに行かなくて不義理しているのです。ごめんなさい!
(ブログ終わり)
お墓はそれぞれの思いがかなって、こういう形になったのだなと思います。父と母も、たまには会っているのかも分かりません。少し遠いけど。
5.これからの道
こうしてみると感傷的な文章が多いですが、あれこれ思い出します。
几帳面で気難しいところのあった父とは、すべてが良い思い出だけではありません。でも孫と帰省すると、いつも「お前たちの一番いいように」と言ってくれた。
義母は、自分でできることは自分でやってくれた。自分で病院に行って買い物して登り坂を帰ってきていた。
そして、母は汗を一いっぱいかいて走り回ってくれた。手紙をたくさんもらった。細字できれいな字で。
最後に。
母を見送って、帰ってきた時のブログにこうありました。
2017年10月30日
これからは両親にもらったものを大切に、自分の中に感じながら、今度は自分が母として祖母として、役目を果たしていきます。
こんなこと書いていたのか? 覚えていない。
そして、7年前から、できていない。
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