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高石ともやさんは「同士」

今朝、スマホを見て訃報を知りました。ショックです。泣けてきます。

高石ともやさんを知ったのは、いつ頃かはっきりしません。フォーク世代ではあるのだけど、少し遅れてきた世代かもわかりません。備忘録で書かせてくださいね。長くなるけど。哀悼の意を表して。

高石ともや


 1941年12月9日 北海道生まれ。
1960年代後半のフォークソング創成期より、2020年代まで現役フォークシンガーとして活躍。
 同時期に、中川五郎、高田渡、遠藤賢司、岡林信康、五つの赤い風船など。

 生まれたのが真珠湾攻撃の次の日と、よく言っていました。子どものころはお腹をすかせていた、と。


立教大学入学。(応援団だったらしい)
あらゆるバイトをする。新潟県のスキー場も。
ビートシガーやボブ・ディランらの歌を訳し歌い始める。

 1966年 「高石友也」の名で活動開始。労働組合や学校、労音、反戦集会などに出演、フォークソングを各地に広める。

 1969年、福井県名田庄村に移住。
 1970年アメリカに渡り、旅をする。ブルーグラスやトラディショナル・フォーク、日本の民謡や自身の生活を歌っていった。

1971年、ザ・ナターシャセブン結成。(~1984年)
1973年、永六輔らと、京都で「宵々山コンサート」を始める。

*ともやさんの魅力


高石ともやさんの、歌声も曲も、人としても大好きでした。ファンとか推しとかでもない。私は「同士」だなと思ってきました。不遜ですけどね。

魅力の一つが、その歌声です。絶対に声枯れなんかしない、深みがあってよく響く豊かな歌声。

それから、あの穏やかでやさしい笑顔。人柄が表われている。

社会に対して

いつも、自分の言葉で、世の中の事を話してくれました。
年忘れコンサートで、その年にあった出来事を振り返り、高石さんなりの解釈で歌(というか語り)にしてくれていて、それが好きでした。

ここ何年かは、それがなかった。そして年忘れコンサートも、2年前に区切りをつけられました。

功績

「受験生ブルース」や「思い出の赤いヤッケ」が有名ですが、アメリカの優れたフォークソングや民謡をたくさん訳したり、詞をつけて歌っています。反戦の歌もたくさん。

「坊や大きくならないで」
「拝啓大統領」
「死んだ男の残したものは」(作詞:谷川俊太郎)
「ベトナムの空」

*美しい曲

「私を待つ人がいる」
「街」
「春を待つ少女」
「陽気にゆこう」
「私の子どもたちへ」(詞・曲 笠木透)
「私に人生といえるものがあるなら」

ああ、書き切れません。

私が高石ともやさんを知り、そして好きになっていった曲の数々です。日本に根づくフォークソングです。

*言葉が大事


ともやさんの歌は「語り」だと思っています。時々メロディから外れて、歌詞を語り始める、そんな時もありました。ご本人も「言葉が大事」と言っておられて、叙情詩と叙事詩では違うという話もされていました。(どっちがどっちだっけ)

コンサート

コンサートにも、たくさん足を運びました。
宵々山コンサートは、おしまいになる最後の2回に、やっと行けて嬉しかった。永六輔さんもお元気だった。

今は「ピースライブ」以前は「ピースナインコンサート」が毎年京都で行われています。今年も案内が来たのですが、高石ともやさんの名前がありません。

ある時、サインをしてもらいながら、少し話をしました。奥様が亡くなったすぐあとで、「まだダメなんですよ(立ち直れない)」と言っておられました。他のサイン会では、一緒に写真を撮ってもらったのですよ。
(恥ずかしかったけど、みんな撮ってもらっていたから)

マラソンランナー
ホノルルマラソンに、連続何十年だか(42年!)参加。椎間板の手術の後でも走られました。トライアスロンも。だから、まだ長生きされると思っていました。

有森裕子さんの「自分をほめたい」は、高石さんから聞いた言葉で、その後「自分をほめてやろう」という曲を作っておられます。

私が知っていたのは、高石ともやさんの、ほんの一部かもしれません。でも、ここ何十年も、私の大きな楽しみでありました。世代は少し違うけど、この社会で、ともに考え、ともに歌い、ともに生きてきました。そんな気持ちになる。だから、「同士」と言わせてくださいね。


高石ともやさん。
本当にありがとうございました!

きっとずっと、歌い継がれていくことでしょう。




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