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私の正体

私は、オードリー若林さんの番組で言うところの「こっち側」の人間です。「こっち側」とは、キラキラ明るい「あっち側」の人間に対して、人付き合いが苦手、人見知りなどの人たちのこと。この言葉を知ってから、つい使ってしまいます。

この前、そのことを考えさせてくれた出来事がありました。

先週の土日、通信教育のスクーリングがありました。通信ですから、ほとんどの人が一人で来ており、顔見知りの人たちが話をするくらいで、教室全体も静かな雰囲気でした。
 一日目、近くに座った人たちでグループワークがありました。通路を挟んだ隣のテーブルに座っていた彼女は20歳。話し合いでも積極的に発言をして、しっかりしているという印象でした。

 知らないもの同士が集まるこういう場では、私は絶対に気軽に話しかけたりできません。でも、一度でも話をすると、関係は変わります。少なくとも、帰りには「お疲れ様です」と声をかけます。

次の日、同じ席に座りました。隣のテーブルに彼女が来たら、「おはよう」と声をかけようと思っていたのです。一度話をしたら、「知らない人」ではないから。

 でも、なぜか前の晩にほとんど眠れなかった私は、できたら少しウトウトしたいと眼をつぶっていました。ふと気がつくと、昨日と同じ席に彼女は座っていて、机にうつぶして寝ていました。1つ隣りの机です。

すぐに授業が始まってしまったので、そのまま話ができないままでした。お昼休みになりました。私も彼女もそれぞれの席で、持ってきたお弁当を食べます。

私は「なんかしゃべらないと不自然だよね」と勝手に緊張感を高めていました。でも声をかけるタイミングも勇気もありませんでした。

私は声をかけたかったのです。昨日、名札を忘れたと言っていたので、「今日は名札は持ってきましたか」そう声をかけようと思っていました。

そして、ついに私は「今だ!」とばかりに思い切って声をかけました。でも、反応がありません。

 彼女の後ろにいた方が、自分の耳を触って教えてくれました。彼女はイヤホンをしているよ、と。

なんだ、そうなんか。聞こえていないんだ。私は拍子抜けです。

それ以上は声をかけませんでした。きっと彼女は、私の声かけが聞こえたら答えてくれたでしょう。でもそういうのが煩わしいかもしれない。

何だかひとりで要らない気を遣っていました。考えるとおかしい。その日のグループ・ディスカッションでは、彼女も私も活発に意見を言い合いました。

 たくさん話をするつもりではなかったのです。ただ、知っている人が横にいるのに話をしない空気感に耐えられなかったのです。

働きながら勉強する若い人を見ると応援したくなるので、そんな話をして「頑張ってね」と言えたらいいなと思っていました。
 そんなの、お節介ですよね。

人見知りのくせに、「なんか話さなきゃ」と思ったり、でも、長く話すのはしんどかったり、帰り道や駅のホームでは、誰にも会わないといいなと思ったり。

なんなんだ、私。

対人援助の仕事をしていた時は、人見知りというと笑い飛ばされたし、開放的な部分も結構あったけど、やめてからは、内向的なところが戻ってきたように思います。子どもや若い頃のように。


「こっち側」と「あっち側」
テレビだから面白く使っているし、わかりやすいから使っちゃうけど、どっちと決められないのが人間ですよね。

 私も、自分の中にいろいろな自分がいると思うことが良くあります。平野啓一郎さんの言う「分人」という言葉がしっくりきます。

この前は、とにかく「自分って複雑やなあ」と思った出来事でした。



誕生日に友達からもらった言葉
「前向きのイメージ満載だけど、実はとても繊細で、自分自身のひっかかりに付き合いながら、常に前を向こうとしている」

これは嬉しかったな。そんな感じだから。


ここまで読んでくれた方に
「こんな訳わかんない話を聞いてくれてありがとう!」
という気持ちです。
ちょっとスッキリした。

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