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私にとっての東日本大震災①

2011,3、11。あれから13年ということで、ここのところテレビや新聞で特集を組んでいる。有り難いことに、私は直接的な被害は何もない。テレビを見て絶句し、オロオロしていただけだ。

今日、震災関連の映画を見てきた。「津島」だ。
テレビで放映されていたこと、映画「津島」について、自分が訪れた福島
これらを中心に「自分にとっての大震災」を書いてみようと思う。他人事にしないために。

映画「津島」

いつも行く劇場。
福島県浪江町津島地区。福島第一原発事故の放射線汚染により、全住民が避難を余儀なくされる。映画「津島」は住民にインタビューして現状や気持ちを語ってもらっている。全部で3時間と聞いて、正直躊躇した。

だが、舞台挨拶がある。例によって、行く気になった。

昨晩遅く、何気なくつけたテレビで、津島地区のことをやっていたのだ。田植え踊りの復活とか。やはり行けと言うことか、と思った。

「88時間のドキュメント」

その後NHKにすると、福島第一原発の、事故当時の緊迫した様子をドラマ化した番組をやっていた。「88時間のドキュメント」の再放送だ。(放送は2016年)

夜遅かったので、録画して今朝見た。究極の選択を迫られる、ベント、メルトダウン、消防車による給水、水素爆発・・・。2016年の放送も見たのだが、忘れている部分も多く、ドキドキしながら見た。

想定外の災害が起こり、打つ手がない。自体は刻刻悪化する。ドラマ化したことで、一層当時の緊迫感が出ていた。結果的には、放射能は放出されて、いまだに大きな影響を与えているのだが、最悪の事態は免れた。

あの非常時の非常時に、これだけの事をよくやったと思う。たぶん不眠不休だったことだろう。飲まず食わずだったかもしれない。作業員は放射線も浴びている。

原子炉格納容器が爆発したら、東日本に人が住めなくなる。そんな絶体絶命の時に、2号機が爆発しなかったのは、もう神の領域としか思えなかった。神様が助けてくれたといったら、非科学的だろうか。

元運転員の方が証言されている。「どうしようもなかったが、何かできたかもしれない。恥ずかしさと申し訳なさが残っている」
専門家として、歯がゆかったのだろう。数年後に退職されている。

一番苦悩した吉田工場長は2年後くらいにがんで亡くなっている。演じた大杉さんも亡くなっているね。


東電・廃炉資料館


サンデーモーニング

今朝のサンデーモーニングでも、東日本大震災関連を特集していた。原発のある大熊町も全住民避難していた。一部に避難解除が出た。子どもたちが小学校を訪れる。机もその上にあるランドセルも帽子も壁に貼ってあるのも、当時のままだ。時が止まっている。子どもたちは大きくなっているのに。

コメンテーターの話から
日本の原子力の研究をめざす若者が減って、研究が停まってしまっている。
原発はアメリカと関連が強い
避難解除の地区に、元からの住民より移住してくる人が多い。

これからの街作りが声高だが、住民の気持ちをないがしろにすることなく復興を進めていかなければならない

そのようなことを私は知った。忘れないようにしないといけない。

テレビを見ていたら、映画館に行く時間になった。急いで準備して早メシ(11時半)食べて出かけた。


次回に続きます。


福島のお土産

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