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読書日記~「母の最終講義」最相葉月


本屋さんをウロウロしていて、「あ、これ」と見つけました。
パッと見て、すぐに買おうと思ったのです。

その前に書評か何かを読んでいるはずです。あまり中身も見ずに、迷わずに買ったのですから。印象に残っていたのだと思います。
著者 最相 葉月(さいしょう はづき)出版はミシマ社。

               *****



介護の記録と思って買った

読み始めるまで、なぜかこの本は、母親の介護のことを書いた本だと思っていた。なぜだろう。

タイトルがそれらしいし、Amazonの口コミにも、「介護の話かと思った」とあったので、そう思った人は少なくないのかもしれない。

あちこちに書いてきたエッセイやコラムをまとめたもの。もちろん介護と関係ないわけではない。第一章「余命という名の時間」と二章「母の最終講義」には、それぞれ、両親のことや命について書かれている。

介護、認知症、余命、施設等。


父は、ガンで舌と声を失い、食事も流動食。余命宣言も受ける。母は、脳出血で倒れ、認知症も患う。「死ぬ。明日死ぬ」と訴える父。著者は遠距離介護をしていたが、限界が来る。

ここで、また思うのが、この本の著者は、献身的に介護した優しい娘という思い込みである。なんでだろう。

これは、またまた介護の本と思った錯覚。そして帯にある言葉「あの介護の日々は、母から私への教育だった」という言葉からだと思う。

もちろん、著者は冷たい娘ではない。やることはやっている。遠距離介護もしていた。自分の思うようにならない状態になった母の心境を思いやる。身内の介護は冷静にはなれない事も、よく聞く。

だけど、どこかサバサバしているように思ったのだ。べったりしていないというか。


ここで私は、一つの仮説を立てる。
著者の本業は、取材をしてノンフィクションを書くライターである。それも、科学技術、精神医学、信仰などがテーマ。人生相談の回答者もされている。(辛口サイショーとある)

つまり、物事を、とても客観的に捉える事に長けているように思ったのだ。文章には人が現われる。同じ事を書いても、違ってくる。性格もさっぱりしているのかもしれない。(勝手な想像です)

実家を片づけているときに、父の独身時代の日記が出てくる。大失恋の話のようだ。

「なんで自分で捨てとかへんねん!」
「物書きの娘なら興味をもって読んでくれるとでも思ったのか。そうは問屋がおろし大根、残念でした、読みましぇーん!」

P27より引用

ちょっと笑ってしまった。ここだけ引っ張ってきて申し訳ない。


この他にも、なるほどと思う言葉がいくつもあった。思い込みを外して読むと、いろいろと考えさせられる本だった。

仕事で出会った人々、地球環境、旅。
ヒト細胞の話もおもしろかった。

心のケア。
著者は東日本大震災の支援チームに同行し、取材している。

人を「してあげる/してもらう」関係に分けることは切なく悲しい。だが、世界有数の災害多発国である日本には、その切なさを知る当事者がたくさんいる。傷ついた人のそばにいて共に悲しむ事ができる支援者がたくさんいる。
 それは軍事力でも経済力でもない。この国が世界に誇れる強さではないか。

P110より引用


そして、全編に思うのは、コロナの影響である。あの頃の重たい空気を思い出し、「もう、来んどって」と切に思う。

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*ヘッダー写真お借りしました。
昨晩、お月様がとてもきれいだった。真ん丸と思ったけど、満月は今夜とのこと。


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