大岩雄典「ユリアーネ・レーベンティッシュ『インスタレーション・アートの美学』大略」を読む

大岩雄典によるユリアーネ・レーベンティッシュの『インスタレーション・アートの美学(Aesthetics of Installation Art)』(2003)の各章をまとめがある。すばらしい仕事だ。これだけを読んで、美学的な関心から感想を書いておく。いい線いってる批判が二つくらいあると思っている。

(1)芸術作品についての美的経験に関する自律を「芸術形式ならではの美的経験がある」と言い換えた方がよい。芸術鑑賞における美的経験には、自然環境の鑑賞における美的経験とは異なる構造がある、の意味か。「主体と対象とのあいだのスペシフィックな構造(structure)があることで、論理や制作実践の領分とは異なる経験を可能にさせるために、芸術は自律的なのだ」。「自律性」という言い方は言いたいことと比べると不適切だろう。言葉遣い的には「芸術形式ならではの美的経験があるよ」と構造から経験には焦点を移し替えていて有意義。ただ、経験の美学が作品の美学と対立的ではない。経験を作る作品の仕掛けにも同等に注意していく訳だから。

(2)カヴェルの演劇性批判へのレーベンティッシュの批判は適切。「それは、敬虔な目撃というよりも、解釈のための機会であろう」。演劇作品に深く共感することで歪んだ倫理観を育むことすらある、と付け加えたい。

(3)「記号/もの」の二重性、は「記号の余り」と呼びたい。フリードの嫌悪感は優れた現象的記述だ。ミニマリズム作品を代表として、現代的な芸術作品には、「これはどの記号システムから読み取ればいいのか分からない」という記号システムの適用不確定性がある。そしてひとつの記号システムから読もうとするとつねに何かが余り(ものになり)、別のシステムを使えばまた余る……この記号の余りから「「記号/もの」の二重性」は具体化できる。

次の『鳩羽つぐ』という映像作品は、こうした記号の余りを持っている(それをわたしは「不明なカテゴリ」と呼んだ)。

(4)説明芸術=御託芸術(illustrative art)へのレーベンティッシュの批判はかなり賛同する。「芸術が可能にするスペシフィックな経験とは、距離の経験――美的対象へのいかなる直接なアクセス可能性をも不安定にする経験なのだ」。

(5)だがレーベンティッシュが提示する芸術作品ナラデハの美的経験があるとして、それは社会的な主体を美的な反省のプレイを続ける美的な主体としてどの程度変化させ続け、その深度はいかほどか、それは経験的な問題になるし、それを確認する仕事は別で必要になる

レーベンティッシュのまとめを読むと、インスタ美学が持つ芸術作品を鑑賞する経験の分析としての意義が分かる。わたしもインスタ研究に美学から関わっていきたいし、その価値があると思わせてくれた。

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