物に当たるのはなぜ悪いのか?

イライラした時物に当たる人がいる。子どもの頃、親類にそういう人がいてとても怖かった。
しかし、彼らは別に痛みを感じる生き物に手を上げているわけではない。もちろん、共用の物を壊されたり、場所を荒らされたら困る。その意味でも嫌だったが、たとえその人の占有する持ち物であったとしても、物に当たるのは道徳的に悪く見えてしまう。
物を壊し放題のお店がある。そこに行って物を壊すYouTuberの動画を見て、たしかに爽快感はありそうだが、しかし残虐なものを感じる。
こうした観察から一つの問いを提案したい。

物に当たるのは道徳的になぜ悪いのか?

まず、悪いと仮定してその理由の候補を挙げてみよう。

  1. 破壊的衝動が身についてしまう説

  2. 脅しの表現説

  3. 感情の抑え方として悪い説

  4. 感情表現として不適説

  5. 物を大切にしようという常識に違反してるような人は危険説

  6. 物を大切にすることには内在的に価値がある説

1.破壊衝動が身についてしまう説

物を壊すことが楽しくなって物以外にも当たるようになるよ説。心理学的に計測できそう。ただ、もしそうじゃなければ別に物に当たってもいいことになる。

2. 脅しの表現説

相手への脅しの表現として物を壊す人はいる。シンプルに悪い。ただ、物を壊すから悪いという感じではない。

3. 感情の抑え方として悪い説

物を壊さないと感情を抑えられないのは子どもっぽい、未成熟な感じがする。しかし子どもっぽく未成熟だから悪いという話になり、物を壊すことそれ自体の悪さではない。

4. 感情表現として不適説

3. とほぼ同様。きちんと喋らずに怒りなどを物に表現するのははしたないとされる(これ自体は結構おもしろい)。だが、ダンスや歌で怒りや憤りを表現するのはよりカッコ良さそうなので、独特の基準はある。今回は掘らない。

5. 物を大切にしようという常識に違反してるような人は危険説

常識に違反することは、たとえその常識が実質的な良さを持たずともふつう非常識人の振る舞いとされる。あいさつが本当に社会的つながりの維持に役立たないという研究があったとしても、あいさつをしない人は常識を尊敬していないので社会的には非常識な人だと言われ疎まれうる。だが、これも物に当たることそのものの悪ではない。

6.物を大切にすることには内在的に価値がある説

今回私の関心を惹くのはこれだ。物を大切にすることにはもしかすると、根源的に何らかの価値があるのではないだろうか? だから、物に当たることは他のいかなる理由で悪くないとしても、物に当たるというそのものにおいて悪いのではないか?

いつ物に当たるのか?

そもそも、物に当たるとはどういうことか? たとえば、バットでボールを打つことは物に当たることになろうか? 包丁でにんじんを切るのは物に当たることになろうか? ふつうならない。
物に当たるのは、純粋に物に当たる意図が問題になる。

物当たり行為:ある行為は次の時、物当たり行為である:その物の機能を度外視して、ただ物に感情発散する意図、あるいは感情表現の意図で力を加える時。

ガチャが出なくてiPhoneをぶん投げたり、不出来な原稿をくしゃくしゃと丸めたり。こういった行為が物に当たり行為である。逆に、iPhoneの荷重テストをしたりするのはiPhoneの機能とは違う力の掛け方だが、別に物に当たっているわけではない。
やや曖昧に見えるのは、口喧嘩をした後ドアを思い切り閉めたり、試合に負けた腹いせにボールを思い切り蹴る行為である。いずれも本来の機能に沿ってはいるが、機能を果たさせながら、思い切り閉めたり、蹴ったりと、機能を度外視して感情発散のためにつかっている。
その延長で、感情発散のために作られたスライムを思い切りちぎったりするのは、どう扱えばいいだろうか? まだ扱いあぐねているので保留としたい。

物当たりの悪さは機能の侵害?

以上から考えると、物当たりの悪さは物が持つ本来の機能を感情的にな発散や表現のために使うことにあるのではないだろうか?
こうすると、いちおう、物そのものに価値があるから物当たり行為が悪いと言わずに済む。
なぜなら物そのものに価値がないとしても、ある機能を感情的に誤用するのが悪いと言えるからだ。
しかしなぜ機能の感情的誤用が悪いのだろうか?
まず機能の誤用はふつうそれほど悪いとは言われない。
しかし、たとえばモナリザをまな板にしたらモナリザに酷い扱いをしていると感じる。本来の機能を不可逆に毀損する仕方で物を扱うのは悪そうだ。
よって物当たりも毀損型の誤用の悪さがある。

人格としての物

加えて、立ち戻って、やはり感情的な誤用であるところに、物当たりならではの悪さがありそうである。これは物をある種の人格を持った存在のように扱い、彼/彼女を痛めつけている感覚を物当たりに感じるからではなかろうか?
物は、私たちに悪意を持ちようがない。しかし、その物を悪意を持ったり毀損する意図を持って破壊したり力を加えている様に、人格を持った存在にそうしているのとパラレルな構造があるように思える。
そして、物の人格、いわば「物格(obsona)」は機能にあるのではないか? 物が持って生まれた物らしさを感情的に毀損する行為は、人格を毀損すり行為とパラレルに見える。ゆえに物に当たる悪さとは、物の機能を感情的に誤用する悪さにあると思われる。
この物格は人が作り出した機能である。なので物に当たるのは、その物を作った人の思いの踏みにじりでもあろう。これが物に当たることに根源的な悪なのかもしれない。
ドラムセットを壊すYOSHIKIに私は軽蔑を感じる。それは一方では破壊衝動の高まり表現として価値ある行為だが、物の機能を感情的に壊し、その作り手の物に込めた思いとしての機能を壊すことであるからだ。

スライムケースは?

ではスライムケースはどうしようか? 物格が感情的に痛めつけられる物を感情的に痛めつけて何が悪いのだろうか? 作り手が丹精込めて壊されるために作ったとしたら?

そんな物格はあまりにも可哀想だからではないだろうか? 私たちは物にさえ、道徳的に真っ当な機能とそうでない機能とを割り当てたくなる感情的な生き物だから、そんな物の宿命を認めたくはないのかもしれない。

たとえ作り手の意思を超えてでも、そんなスライムを使ってやりたくないと思う、私の根本的な擬人性のまなざしを抜くことはできないと私は感じる。

物に当たることの悪さについて、一定の結論が得られたように思う。

(ちなみに関連する英語論文を哲学雑誌のいずれかで見た記憶があるが検索しても見つからず、悲しいので、見かけたらぜひ一報ほしい。Twitter: deinotaton)


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