見出し画像

SFのための哲学:SFの定義のつくり方【『SFマガジン』持ち込み企画書】

この文書は何か?

本記事は『SFマガジン』編集者の方に連載をプレゼンするためのプレ記事である。この記事が評判になれば編集者のひとにアピールできてよいので、あなたが続けてこの記事を読みたいと思っていただけたなら、SNSをはじめ拡散していただけるとひじょうにうれしい。

コンセプト

SFのための哲学」と題して「SFを読む・つくる・批評するときに役立つ、分析哲学・分析美学における概念と議論を紹介する

本文[2454字]

「SFとは何か」をめぐって幾多の争いがなされてきた。SFがなんであるかを明示化するSFの定義––––SF作家、ファン、研究者たちはこの聖杯を夢想しながら、SFへの愛と畏敬とともに「SFとは何か」を語ってきた。曰く「SFとは科学による新たな世界像の描写」、曰く「SFは科学的世界観を介した宇宙への驚嘆」、曰く「SFとは物語によって科学とひとびとをつなぐ表現」––––。だが積み上げられた「SFの定義」の語りたちはどこにいったのか。もはや打ち捨てられ、省みられることのない過去の廃墟に撒き散らされた硝子片たちのように、ただ悲しく光を映し出している。

昨今では定義の試みは忌避される。「定義に何の意味もない」「定義はむしろ有害」などといったアンチ定義論あるいは「SFだと思ったらSF」といった「なんでもSF」説と呼べる主張も散見される。たしかに、SFという営みは誕生の時代をはるかに下って、現在ではひとつの定義で捉えるにはあまりに豊かな作品群を成しており、その鬱蒼と繁茂する生態系の全貌を捉えることすら難しい。ひとつの定義によってSFをまとめようとするなら、ベッドのサイズに合わない旅人の足を切ったプロクルステスの寝台の伝説にあるように、定義に合わないSFの実践を切り捨てることになるかもしれない。もしジャンルの定義がそうしたSFの実践を阻害するものなら、定義など不必要でそれどころか有害なものであるだろう。

加えて、定義論それじたい、良識あるひとびとによって忌み嫌われるに十分な様相を呈している。じぶんの愛するSFが否定され、ずかずかと土足で立ち入ってくるひとびとが定義の聖杯を握って「これがSFだ!」と叫んでお気に入りの場所を掻き乱している。その手にあるものを見れば、大概は、彼らお気に入りのごく狭いSFジャンルに過ぎないことがよくある。SFに限らず、定義論を瞥見すれば、じぶんの好みの定義を押し付け合うだけの不毛な争いに見えがちである。

不必要でさえあるとみなされている定義をめぐって同じジャンルを愛するひとびとが不和に陥るくらいなら、定義など追放してしまえばよいという考えになって無理はない。

定義を否定するひとには少なくともふたつの一見合理的な理由がある。第一に、定義は本質的に無用で有害である。SFの実践をゆたかにすることはないし、不可能である。第二に、定義について語ることもまた無益である。

定義論の忌避は一見理に適っている。だが、定義論には価値がある。定義は本質的に有用であり、定義論について有益な語り方がありうる。定義論が悪なのではない。うまく定義の話をできないことが問題なのだ。

定義論の忌避も定義の放棄もその見た目ほどSF実践を盛り上げてくれるわけではない。定義はジャンルの実践と発展にとって有用であり、ときに必要でさえある。それではまず、定義の有用さから論じよう。

定義はまず、作家にとって役に立つ。あるジャンルを定義することは、必ずしも当該ジャンルの表現の自由を制限しない。逆に特定のジャンルをあえてハズし、壊すためには何が必要かを明示化できる。たとえば、ある時代の地域で芸術の定義が何か現実の対象を模倣することなのだとみなされていたのだとすれば、その定義を使って二つの挑戦ができる。ひとつは、その定義を体現をひたすらに追求することで「純粋なジャンル表現」を目指す方向に定義を利用できる。絵画の内容ではなく、その平面性、物質としてのキャンバスなどを絵画芸術の定義の核心とみなすなら、それらを追求し続けることで、抽象絵画においてみられるようなジャンルならではの表現を模索できる。もうひとつは、定義を破壊することを目指すことで「新たなジャンル表現」の探索に使用できる。模倣的ではない芸術表現の可能性を想像してみると、芸術の新たな可能性を開けるように。もう一度絵画作品を例に挙げるなら、支持体としてのキャンバス、素材としての絵具という絵画芸術の定義の核心をずらし、ディスプレイに絵画を塗ったり、紫外線を当ててはじめて輝く絵具のように、伝統的な絵画以外の素材を用いて絵画芸術の定義を逸れ続けることもできる。定義の純粋化、定義の拡張を通じて新たな表現を模索するためにSFの定義は作家にとって役立つ。

さらに、定義は鑑賞者と批評家にとって役に立つ。

––––以下、掲載予定の、定義が鑑賞者と批評家に役立つひじょうに有意義で啓発的な解説––––

以上、定義のふたつの有用性を論じた。

定義は制作と鑑賞・批評実践の成功を保証しない。だが、制作者が新たな新天地を目指すための地図として、鑑賞者が作品をより味わうためのガイドとして定義は役立つ。

つぎにわたしたちが考えるべきは「うまくSFの定義の話をする技術」だ。定義についての語りはしばしば無益で不和を生む悲しい結末に終わる。その理由のひとつは、それは、多くのひとびとが定義をめぐって議論するための概念やテクニックを共有していない点にある。

定義は一見誰でもできるように思える。とくに、当該のジャンルに詳しければ定義の能力は十分にあると思われている。だが、定義は誰にでもできるわけでもなく、意外なことに知識があればできるものでもないのだ。第一に、楽器を弾いたり図面を引いたりするように、それには技術が必要で誰にでもできるわけではないし、第二に、音楽の良きリスナーが必ずしも良き演奏家ではないように、知識量と定義の技能とはかなり別の能力なのだ。知識は良き定義のスキルの必要条件かもしれないが十分条件ではない。

いくつもあるだろうが、その技術の代表のひとつに「定義の機能」の明確化がある。

––––以下、掲載予定の、有用な定義の技法についての真に有用な分析哲学的議論––––

以上から、SFの定義をする意義とSFの定義のつくり方のひとつが示された。

では、SFの良き定義とは何か? それはおそらくわたしだけではつくれない。これを読んでいるあなた方の力を借りたい。わたしよりもいっそうSFジャンルの作品と歴史に詳しいひとびとが哲学的技術を携えたなら、きっと実りある議論と定義がなされうるだろう。そのための概念的インフラを整えていければと思う。

最後に読書案内をしておきたい。

––––以下、掲載予定の、他ではない分析美学の文献の啓発的な紹介––––

[最終的には3000字弱-見開き2頁〜]

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?