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火の山十五 第二章 魔王と魔性の女「世界の謎を解くために水月を抱いたら」

 岡田と二人で喫茶店の様子を見に行った。
「臨時休業」の張り紙は以前のままだったが、店の中には人の気配がした。
「マスター、いるかい?」
 僕が店の中に呼びかけると、「おお」という声が帰ってきた。
「何だ、いるのか」と僕が言うと、「おい、入って来いよ」と、マスターの声がした。
 足を一歩踏み入れると、店内の様子がどこか以前と異なっていた。
 僕と岡田は慎重に歩を進め、いつものカウンターに並んで座った。奥からマスターが顔を出した。マスターは髪や髭が伸び放題で、げっそりと痩せ、どこか陰険な陰りを帯びていた。
 「まあ珈琲でも飲んでいけ」
 マスターがカウンターの中に入り、いつものように珈琲を淹れ出した。
 店の中は確かに以前とは何一つ変わらない。だが、湿った空気も、照明の暗さも、そして、店全体の雰囲気も、すべてがどこか以前とは微妙に違っていた。
 そして、その中にマスターがいつもと変わらず溶け込んでいる。
「どうしたんだい? 急に臨時休業で、びっくりしたよ」と、僕が言う。
「何があったの?」という岡田の質問に対して、マスターは「なんにも」とさらりと言った。
 そして、「俺だって、時には休みたくなるさ」と、ぽつんと言った。

 マスターがカウンターの中から、珈琲を差し出した。この時、僕は初めてマスターの顔を正面から見た。眼の下に隈ができ、それがマスターをより陰りのある人間に見せていた。
「マスター、知っているだろ? ほら、少女の生首事件」
 と、岡田が意気込んで言った。
 マスターは「ああ」とだけしか言わない。
「それにしても驚いたなあ。だって、首が発見された場所、この店のすぐ近くだもの」と、岡田が言う。
「何か、気味が悪くて、この辺り、歩けないね」
 僕がそう言うと、マスターは僕を見て、「ところで、洋、首切りで思い出したが、お前、以前、首切り地蔵の話、しなかったか?」と言った。
 「首切り地蔵? なんだか気味の悪い地蔵だな」と、岡田が剽軽な調子で言う。
 僕の脳裏には首切り地蔵の姿が鮮明に残っている。
 あの時、首切り地蔵は目を真っ赤に泣き腫らしていた。
「ああ、夢の話だろ?」と、僕が言う。
「今回の首切り事件と、何か関係があるのか?」と、岡田が聞いた。
「いや」
 と、マスターが言い、それから「偶然だが、俺の故郷にも首切り地蔵に関する言い伝えがあるんだ」と言葉を続けた。
 僕は背筋がゾクッとするのを感じた。

 俺の田舎は京都から電車で一時間ほどの盆地で、夏は暑くて冬は寒いところだ。俺の家のすぐそばには小さな川が流れている。寺川と言って、もともとは「手洗い川」がその由来だそうだ。
 なぜ「手洗い川」と言ったか、分かるか?
 何でもそこは処刑場だったらしく、大勢の罪人がこの川の河原で首を切られたらしい。その首を川の水で洗ったところから、「手洗い川」と呼ばれるようになった。
 川は一面血で真っ赤に染まり、未だに川底は黒ずんでいる。
 戦後、その川の辺りに道路が通ったが、その交差点のところでは交通事故がひっきりなしに起こる。そこで、交差点の片隅に、お地蔵さまを祀った。それが首切り地蔵というわけだ。
 つまらない因縁話だ。
 俺はそんな因縁話、歯牙にもかけないが、お前の夢の話には引っかかるものがある。
 確か、父親に手を引かれ、交差点を渡る時、首切り地蔵が目を真っ赤に泣き腫らしたっていう、お前の夢だ。
 正直、あの夢の話を聞いた時、俺はぞっとした。
 そして、今度は例の少女の首切り事件だ。
 どれも偶然かもしれないが、なんだか腑に落ちない。
 洋、どうか?

 僕はぼんやりとマスターの顔を眺めていた。
 先日、首切り地蔵の夢を再び見た。そうだ、その夢の中でも、首切り役人が数珠つなぎとなった女、子供たちの首を順番に切っていた。
 僕はその話をマスターに言わなかった。何だか言ってはいけないように気がしたのだ。そうだ、夢から覚めた時、少女の首切り事件のニュースを、テレビで知ったのだ。
 あれは偶然だろうか?
 岡田が「なんだか、気味の悪い話だな」と言った。
 マスターは岡田を無視するようにして、僕だけに鋭い視線を送った。
「洋、お前には何かある?」
「何のこと?」
 僕は物憂げにマスターを見上げた。
「第一、水月という女だって、怪しい」
 岡田が、「なんだか、今日のマスター、いつもと様子が違うよ」と言った。
「水月がどうしたの?」と、僕が聞く。
 マスターは少し考え込むようにして、それから僕を見て言った。
「水月という名前は、水に映る月の意味だろ?」
「綺麗な名前じゃないか。マスター、その名前のどこがおかしいんだ?」と、岡田が首を傾げた。
 僕は黙って、マスターの口元を見つめていた。
「水月とは、幻の月のことだ。水面に映るだけで、何もかもが幻想的になる。水面に映るものは、すべてが上下に転倒する。上から見おろすと、自分の頭が一番下に、足が一番上に映るものだ。しかも、映るのは、月だ。天上にあるものが、水の底というわけだ。水の表面は絶えず揺らいでいる。しかも、光によって薄い膜ができる。それだけでも実に神秘的だよ。それだけではない。地上から見る月は天体の中で、太陽と並んで大きい。だが、その太陽はじっと見つめることができない。それが思索の対象とはならない理由だ。しかし、月は違う。だから、昔から人は月を眺めて、物思いに耽ったものだ。月はそれ自体が思索や信仰の対象となった。そして、その月は今すべてを幻想たらしめる水面に浮かんでいる。それが、水月だ」
 マスターはそこまで一息に喋ると、煙草に火を付け、息を思い切り吸い込んだ。
「水月はまるで月の女神だな」と、岡田が言う。
 僕は不安に駆られ、「マスター、何が言いたいんだ?」と聞いた。
「鈍いな。まだ分からないのか。昔から、月は人の憧れの対象だ。人々は天上の月を眺めては、現世とは別の、自分たちの理想の世界を夢見た。西行法師だって、みんなそうだ。彼は戦乱の世に絶望して、ひたすら月に願いを託したのだ。かぐや姫は時の天子の求愛を振り切って、そうした月の世界に帰っていく」
「月の世界はどれだけ恋い焦がれても、地上の人間の手には届かないものなあ」と、岡田が言う。
「問題は、水月だ。天上の月は水面に映って水月となる。天に昇ることは、すべてが上下に逆転する水面において、それはそのまま水の底に沈むことになる」
 僕は静かに眼を閉じた。
 波間に漂う幻想的な月の底に、一人の少女が長い髪を揺らめかせて、沈んでいく。そうだ、沈むことは、天に昇ることなのだ。
 この世で幸せを得ることが不可能ならば、水の底に沈むしか手立てがないのではないか。
 水月は自分の身体は汚いから、火の山で燃やしてしまいたいと言った。汚れをすべて拭い去った水月は、逆に月の世界に浮上するのか。
 水月の心の傷の深さを知った今、マスターの言葉はずっしりとした重みを伴って、僕の心に響いていく。

 海。
 そう言えば、水月は夜の海が見たいと言った。
「マスターにかかれば、名前一つでも神秘的なものに早変わりするなあ」と、岡田が感心したように言う。
「知ってるか? 水月はそれ故、黄泉の国、つまり、あの世の象徴なのだ。いいか、これは立派な幽霊の世界なんだぞ」と、マスターが言う。
「幽霊?」
 僕はその言葉を虚ろな気持ちで聞いていた。
 水月が幽霊、確かにその通りではないか。あれほど透明な、美しい女性は、とても現実のものとは思えない。
「洋、気をつけろよ」と、岡田が言う。
「えっ」と、僕が言う。
「最近、お前、なんだか影が薄いぞ。幽霊に魂を吸い取られたんじゃないか?」
 と、岡田が冗談めかして言った。
 マスターがゆっくりと煙草を吹かしながら、「可哀想に。もう手遅れだ」と少し笑い気味に言った。
「勝手に水月を幽霊にしないでくれよ」と、僕が言う。
 その時、岡田が突然、突拍子もないことを言い出した。
「洋、お前、もう寝たのか?」
「えっ?」
「お前、水月と寝たのか?」
 僕は黙っていた。
「一度、水月と寝て見ろよ。それが幽霊に取り憑かれない、一番手っ取り早い方法だ。第一に、幽霊かどうかは、抱いてみれば分かることだ。第二に、体は正直だ。口ではどれほど甘い言葉を囁いていても、それが上辺だけのものなら、体が正直に答えてくれる。言葉は繕えるが、体は嘘をつかないよ」
 岡田は言葉とは裏腹に、その表情は真剣だった。
 水月を抱く、それは今まで一度も脳裏に浮かんだことのない発想だった。むしろ、僕はそうした事態に怯えていた。水月の透明さが、彼女の肉体を意識させることを拒んでいた。
 しかも、水月は幼い頃、義理の父親に犯され、未だにそれは深い傷となって、彼女を苦しめている。二人にとって、肉体的な接触はタブーだった。
 マスターは、ただニヤニヤと笑っているだけだった。
 僕は岡田の言葉を冗談と軽く返せず、その気まずさの中で、目は宙を彷徨った。
 生身の肉体としての水月を抱く。
 僕にはそのことの意味が実感できない。それはまさしく水月が幽霊だと言うことではないのか。

 「ところで、洋」
 と、マスターが気まずい雰囲気を救うように、口を開いた。
「首切り地蔵の話に戻るが、俺にはどうも気になるんだ。確か、あの時、お前は父親に手を引かれ、交差点を渡ろうとしていた。信号が赤になる瞬間、お前は飛び出したという。その時、お前を助けようと飛び出した父親も一緒に轢かれ、父親は死に、お前だけが助かった。そんな話だったな。その時、交差点の片隅で、首切り地蔵が目を真っ赤に泣き腫らしていた」
 岡田が「本当に気味が悪いなあ」と言った。
「その話、もう少し詳しく話してくれ。気になることがあるんだ。確か、その時、警察官が登場したな?」
「ああ、その通り、僕が交差点を渡ろうとした瞬間、道路はみるみる広がって、大きな川となった。そして、僕と父は川を挟んで、離ればなれになってしまったんだ。まだ幼かった僕が川を渡れなくて、泣きじゃくっていると、一人の警官が「坊主、もうあの川は渡れないよ、信号は永久に赤のまま凍りついてしまったんだ」と言ったんだよ」
 僕の脳裏に、あのでっぷりと太った、ちょび髭を生やした警察官が蘇ってきた。警察官はやたら唾を飛ばして、僕に言った。「お前は、もう父親には会えない」と。
 僕は咄嗟に逃げ出し、警察官の姿が見えなくなるまで、全力で走り抜けた。
「洋、あの時、父が死に、お前だけが生き残ったって言ったな?」
「うん、二人は車に轢かれ、病院に運ばれた。幸い、僕は軽傷で無事に退院できたけど、父は暫く昏睡状態が続いた後、息を引き取った。だから、父は僕のせいで死んでしまったのだと思う」
 と、僕は苦いものを吐き出すように言った。
 その時、岡田が「マスター、いったい何が言いたいんだ?」と、真剣な表情で言った。岡田はもういつもの岡田ではなかった。珍しくその剽軽な雰囲気は影を潜め、深刻な表情でじっと二人の様子を眺めている。
 マスターは岡田を無視するように、言葉を続けた。
「その警官は、黄泉の国の番人かもしれない」と、マスターはぽつりと言った。
「えっ」
 同時にそう言ったのは、僕と岡田だった。
「黄泉の国の番人?」
 僕が再びそう言った。
 暗い喫茶店の中、青ざめたマスターの顔が浮き上がる。カウンターの中で、マスターは僕だけを真っ直ぐ見つめ、静かに語り出す。まるで僕に対決を挑むように。
 岡田は僕と並んで、カウンターに腰をかけ、二人の会話を息を呑んで聞いている。湿っぽい空気が辺りを包み、僕たちは息を殺している。時折、マスターの吐く煙草の煙が、天井に舞い上がる。煙は拡散し、どこかへ消えていく。
「その時の川は、三途の川だ」と、マスターが静かに言う。
「なるほど、だから、警官は黄泉の国の番人というわけか」と、岡田が頷く。
「洋、あの時、川を渡ったのは、お前だろ? 父親は川の此岸に立ちすくみ、お前は三途の川を一人渡りきったんだ」
 僕は自分が生唾を呑み込む音を、はっきりと聞いた。
 体が硬直し、言葉は凍りついた。
「だとすれば、交通事故で即死したのは、お前の方だ」
 マスターが死の宣告をする。
「その時、首切り地蔵は、血の涙を流した」
「まさか」
 と、岡田が絶句した。
「幼い子どもに、死の意味がわかるはずがない。死は一瞬に凍りつき、その時からお前の時間が止まった」
 僕は何かを言おうとした。でも、それが何なのか、自分でも分からない。頭の奥の方で、鈍い痛みがする。その時、僕は僕の心臓の鼓動をはっきり聞いた。
「でも、僕は確かに父の臨終の場面に立ち会った」
 僕はようやくの思いで、それだけ言った。マスターはふんと鼻で笑い、「それはお前の想念の世界のこと。お前は瞬時に死んだが、その自覚がない。その時、お前の目には今までと変わらない世界が映ったはずだ。それはお前に記憶の遺伝子が再現して見せた、想念の世界だ」と言った。
「想念の世界?」
 岡田が聞き返す。
「お前の目の前には、今までと変わらない世界があった。だから、お前には死の意味がわからない。だけど、今までの世界とはどこか微妙に違っていたはずだ。その世界はお前の想念が具象化したもので、だから、お前の想念が大きく変わるたびに、お前の世界自体が揺れ動く」
 僕は体の芯から震えだし、やがて、その震えはどうにも止まらなくなった。ガタガタと唇を震わせ、やっとの思いで、「マスター僕が幽霊だとでも言うのか」とだけ言った。
「仮説だよ。あくまで、これが俺の夢占い、お前の語った夢からの推測に過ぎない。あの時、お前が死んだかどうかなど、確かめようがない」
 岡田はどうしたのだろう?
 僕はマスターを凝視していた。僕の視界にはもうマスター以外に、何も入らない。僕は自分の足下そのものが溶解し、地の果てまで落ちていくような、そんな錯覚に襲われていた。
 その時、ガチャンとコップの割れる音がした。
「洋が幽霊ならば、俺たちは何なのだよ?」
 岡田がコップを落とし、棒立ちになっていた。
 マスターは天井を見上げ、「まあ、落ち着け。単なる仮説、空想話だ」と言った。
 本当に、僕は死んだのだろうか?
 僕は必死になって、あの頃のことを思い出そうとした、父の臨終、母との別離、そして。火の山ーーー。

 火の山、
 そこで、水月と出会った。
 水月は母に棄てられ、火の山で泣いていた。そして、世界のどこかで火がつき、僕たちはそこで燃やされた。
 あれは、本当に夢だったのだろうか?

「すべての鍵は水月と言う一人の少女が握っている」と、マスターが言った。
 岡田は暗い目で、マスターを凝視していた。
 マスターは言葉を続ける。まるで呪文のように。
「水月の謎を解くのだ。彼女がお前の脳裏に巣くった幻想なのか、それとも、本当の幽霊か、黄泉の人間か。そうだ、洋、岡田の言う通り、水月と寝てみろ。これは冗談じゃないぞ。お前が水月を抱けば、この世界の謎が解け始める」

 僕と水月の夢。
 そうだ、早く水月を取り戻さなければ。
 僕は嫌な予感に怯えた。
 母に連れられ、水月は闇夜の中へ去って行った。
 僕は一人立ちすくみ、二人が闇夜の中へ消えていくのを眺めていた。
 そうだ。
 僕は今こそ水月の肉体を、この腕に抱かなければならない。

ありがとうございます。とても励みになります。