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火の山十三 第二章魔王と魔性の女 「走馬灯体験が真実だったとしたら」

 深夜の電車は、人がまばらだった。
 二人は電車のドア付近に立ち、真っ黒に流れる窓の外の風景を見つめていた。黒い家並みが次々と現れ、やがて、幾つかの高い煙突が見えた。それもすぐに過ぎ去り、電車はごみごみとした商店街のそばを通り過ぎた。
 僕は水月の顔をじっと見つめた。水月はそれを気にする様子もなく、いつまでも流れる外の景色を眺めていた。
「洋、見える?」
「えっ、何が?」
「私たち、今同じ景色を見ているのよ」
 僕は慌てて窓の外の景色を見ようとした。
「ほら、あそこに小高い丘が見えるでしょ? ほら、あそこに小さな池が」
「えっ、どこ? あっという間に通り過ぎてしまうよ」 
「ううん、本当は違うの。私と洋とでは、見ている景色が違うの」
「分かったよ。もっと一生懸命探すよ、水月が見たものを、僕も見たいんだ」
 僕は必死で目を懲らし、流れる景色を自分の網膜に焼き付けようとする。水月は寂しそうな表情を浮かべ、ゆっくりと首を横に振った。
「違うのよ、私たちは同じ景色を見ているようで、実は別々の景色を見ているの」
 僕は黙ったまま、相変わらず窓の外の景色を凝視していた。水月が言葉を続けた。
「たとえ同じ景色であっても、私と洋のそれぞれの網膜に映った映像を、脳が認識している。見るって行為、考えてみると本当に不思議だわ。二人の網膜が同じでない限り、そこに映った映像もまた異なっている」
「でも、人間の網膜って、それほど構造に違いがないよ」
「ううん、たとえ同じ網膜を持っていたとしても、脳が関与する限り、認識の仕方が異なっているわ。私の脳は私の網膜に映った映像を認識するのだし、それは洋とは決して同じではないの」
「よく意味がわからないよ」
「では、こう考えてみて。誰もが記憶の風景を持っている。そして、その風景に重ねて、今の風景を見ているの」
「記憶の風景?」
「そうよ、記憶の風景。たとえば、初対面の人って、なんか簡単にはなじめないでしょ。それは記憶の風景が存在しないからなの。でも、次に会う時は、最初の記憶に重ねてその人をみるから、自然と親しみを感じるに違いないわ。ましてや、最初に好印象を抱いたら、その記憶に重ねて今の相手を見ることになるの。家族が恋しいのは、幼い頃からの数々の記憶を下敷きにお互いに接しているから。他人では駄目なのよ。家族の愛情には勝てない」
 いったい水月は何が言いたいのだろう。水月の母親が帰ってきた事実が重くのしかかり、僕は警戒のあまり体を硬くした。
 水月は窓の外の景色から目をそらして、「だから、私と洋とでは、同じものを見ていても、実は同じものを見ていないのよ」と言った。
 その声の調子が重たく、悲しみを帯びていた。僕は嫌な予感に襲われた。
「でも、僕たちは火の山という共通の風景を持っているじゃないか」
 と、語気を強めて言った。
「そうよね。火の山の風景がお互いを引き合わせ、そして、二人を離れないようにしっかりと結びつけた。それは確かだわ。でも、私この頃いつも思うの。火の山はあくまで風景の入口に過ぎなくて、その奥にあるものは決定的に違った世界ではないかって」
 水月は何を言おうとしているのだろうか。僕は水月の横顔を見つめながら、彼女の小さな額の中の情念を読み取ろうと、懸命に目を懲らした。
「でも、火の山は二人を結びつけたきっかけに過ぎず、大切なことは二人が今愛し合っていて、お互いに相手が必要だってことだよ」
 水月は黙ったままだった。 
「それとも僕のことが嫌いになったの?」と、恐る恐る聞いてみる。
 水月は大きな溜息をつき、僕の方を振り返って、「そういう問題じゃないのよ」と言った。
「私ね」
 と、水月は言いかけ、言葉を止めた。僕は水月の心が掴めなくなって、途方に暮れた。
「何? 全部言ってしまえよ。思わせぶりなまま放置されたら、かえって苦しくて仕方がない」
「でも、あなたに言っても、おそらく分かってもらえない」と、水月は悲しそうにいる。
「そんなことないよ。話してごらん」
 水月の言葉の一つ一つが胸に刺さって、痛かった。彼女の言葉が僕たちを引き裂き、その結果、水月が手の届かないところへ行ってしまうようで、怖かった。
「あなたには決して分からない。だから、私はひとりぼっちで、それに耐えていかなければならないの」
「そんなことはないよ」
「ううん。でも、私のお母さんなら、きっと分かるわ。だから、私はお母さんを置いてきぼりにできないの」
 僕は瞬間に頭に血が上るのを感じた。
「お母さん? 君を棄てた人だよ」
「いや、そんな言い方をしないで」
 僕は次第に焦燥感に駆られ始めた。ほんの少し前まであれほど二人の魂は惹きつけ合っていたのに、水月が行方をくらました時は息もできないほど苦しかったのに、そうした気持ちを訴えようとすると、逆にそれが空回りし、水月がより遠のいてしまうような気がして、僕は言葉を失ってしまった。
 僕には水月が何に怯えているのか、理解できなかった。そして、理解できないというそのこと自体が、僕を不安にした。
 水月は再び電車の窓から、夜の景色を見ている。
 僕の腕の中で震えていた水月の体の愛おしさを脳裏に浮かべ、それと同時に彼女の醸し出している閉ざされた空気に戸惑うばかりだった。
「ごめんね」
 と、水月が弱々しい声で言った。そして、「時間って、不思議よね」と、言葉を続けた。
「えっ、時間?」
「幼い頃の時間って、すごく濃厚なの。それに対して、成長してからの時間は透明で、まるでジェットコースターみたい」
「そうだね。それは僕にも分かる。僕だって、家族三人の楽しい思い出と、父の事故の場面が、未だに僕の心を支配している。その後の僕の人生はまるで冬眠だったよ」
「冬眠?」
 水月が物憂げに、僕を見上げた。
「そうさ、冬眠みたいなものだ。君と出会うまでは、僕は僕の心を閉ざしていた。君が僕を外の世界に連れ出してくれた。だから、僕には水月が必要なんだ。君を失ったなら、僕は途方に暮れて、また前のように心を閉ざしてしまうしかなくなる」
 水月の瞳にわずかに優しい光が戻ってきた。でも、それも一瞬で、水月はまたドアの外の景色に目を戻した。
「記憶の風景って、不思議。火の山の前と後では、記憶の風景が違うの」
「記憶の風景?」
 僕は思わず首を傾げた。
「お母さんに棄てられるあの瞬間までは、私の人生の一つ一つの場面が鮮明に、心のひだに焼き付いている。夜の仕事に行ったお母さんを、夜中の遅くまでじっと一人で待っていたこと、新しいお父さんが来るその度に、狭い家の空気が代わり、私が窒息するような思いで身を固くしていたこと、寒い中で家を追いだされ、いつまでも凍えた空を見ていたこと」
 窓の外の景色を見つめている水月の横顔を、僕は黙って見つめていた。僕には水月の脳裏にどんな情念が渦巻いているのか全くわからなかった。
 水月は僕の方を振り向くこともなく、独り言のように言葉を続けた。
「おかしいでしょ? お母さん、私を公園に棄てようとした時、五百円玉を握らせたのよ。ちょっと買い物に行くから、これで何か食べ物か、飲み物を買って、おとなしく待っていてちょうだいって。私、その五百円玉、何に使っていいのか分からなくて、随分悩んだわ。五百円玉が手の中で汗にまみれて、ぐっしょり濡れちゃったの」
 僕は胸苦しさを覚えながら、次第に焦りを感じ始めていた。僕と水月との間にはいつの間にか透明な膜が張られていた。僕はその膜を突破する術を考えあぐねていた。
 水月は僕は真っ直ぐに見て、更に、
「ねえ、走馬灯的体験って、知ってる?」と言った。
「走馬灯?」
「そう、人が死ぬ瞬間、自分のこれまでの人生が一瞬のうちに、まるで走馬灯のように思い起こすって言われている」
「ああ、知ってるよ。でも、それがどうしたの?」
 水月は何が言いたいのだろう?
 僕は胸が早鐘を打つのを感じていた。窓外の景色を見ながら、僕が今見ているこの景色が、水月の目にはどのように映っているのだろうと思った。
「もし、走馬灯的体験が真実だったら、時間って、何だろうと思うの。私たちは時間は等間隔に無限に流れていると信じている。アナログ的な時間って言うのかな。人の一生を死ぬ瞬間にすべて思い起こすなんて、不可能でしょ。でも、一つだけ可能性があるの。洋には、分かる?」
「分からない。いつもそんな哲学的なことを考えているの?」
 僕の知らない水月がそこにいた。それが僕を不安にさせる。いや、水月は絶えず僕の知らない何かに、変身しているのだ。
「哲学でも何でもないわ。これは私にとって、切実な事実なの。人生は夢幻の如くなりって、言うじゃない。どうしてか分かる? たとえば、夢を見ている時の時間の早さと、目が覚めてその夢を思い起こしている時の時間の早さとは違うでしょ? つまり、時間っているのは、流れる時間と流れない時間とがあると思うの。普段は時間は等間隔に流れているけど、どうしても忘れられない体験をしている時には、時間はストップする。本当に止まるのよ。その時、時間はもののように存在するの」
「もの?」
 僕が小首を傾げる。
「そうよ。時間は一個のものとなる。だから、夢から覚めた後は、一瞬のうちにそれを思い起こすことができるの。簡単よ。時間が一個のものなら、それをちょいとつまめばいいだけだから。人生が夢幻なのも、同じ理屈ね」
「まだ、よく分からないよ」
 水月は暫く考えている様子だった。
「こう言えば、分かるかしら。時間そのものはアナグロ的で、等間隔で、無限に時を刻んでいるのかもしれない。ところが、忘れられない体験をすると、それが脳のどこかで瞬時にものとして記憶されるのだわ。幼い頃の忘れられない体験、初恋、大学合格、結婚、愛する人の死など、忘れられない体験や印象深い出来事が、脳のどこかでものとして記憶され、蓄積される。その記憶の箱は普段はふたが閉じられているのだけど、死ぬ瞬間、何らかの設計図が脳には隠されていて、突然その箱のふたが開き、脳に刻まれた体験が現れる。それはものとしてデジタル化された記憶で、だから、それぞれのシーンが早送りのように、一瞬のうちに目の前で再生される。それが走馬灯的体験じゃないかしら」
「少しは分かったような気がする。確かに、一生のうちで、どうしても忘れられないシーンを早送りで見ていけば、瞬時に人生を振り返ることが可能なわけだ」
「だって、今日起こった出来事でも、朝どんな順番でご飯を食べたとか、どのような手順で服を着替えたとか、どうでもいいことはすべて記憶に残っていないけど、十年前の出来事でも忘れられず、ありありと思い起こすことってあるでしょ。そうした体験をしている時、時間が止まり、それは脳のどこかにものとしてデジタル化されて刻み込まれる。たとえば、映画だって、人間の一生を二時間前後で表現することができるわ。生まれた時、幼少期の忘れられない体験、学生時代、人生の転機となった出来事と、それら幾つかのシーンを断片的に映し出すから。だから、本当はその時の時間はデジタルで、一つ一つの体験は分断され、別個のものとして存在しているのだけど、観客にとっては時間が連続し、さもその人の生涯を見ているような錯覚に陥るの。アニメーションの原理も、似たようなものかしら」
 僕は水月の話を聞きながら、次第に不安が募っていくのを感じていた。それは不安というよりもむしろ恐怖に似た感覚だった。決して人間が知ってはいけない秘密を、黙ってこっそりと覗き見しているような感覚だ。
「分かるよ。分かる気がする。確かに、僕にも忘れられない体験が幾つかあって、それらが脳のどこかに記憶され、普段は思い出すことはなくても、何かの拍子に鮮明にそれらが浮かび上がってくる、そんな感じかな?」
 水月が少し頷く。
「でも、問題なのは、自分の脳がいったい何を刻み込んだのか、それをコントロールできないってこと」
「あっ! それって、なんだか怖いな。だって、普段は忘れているかもしれない記憶だろ? 走馬灯的体験が真実なら、死ぬ瞬間、いったいどのような光景が自分の中にあって、それがどのように蘇ってくるのか、その時になってみないと分からない」
「私、時々思うの。私が死ぬ瞬間、いったいどのような光景が私の脳から浮かび上がっているのだろうって。本当は、走馬灯的体験は、死ぬ瞬間のことではないのかもしれないわ」
「えっ!」
 僕は小さな叫び声を上げた。
「閻魔さまの前で、人は自分の生涯を一瞬にして映し出すのかもしれない。そして、自分がどのようなシーンを刻み込んでいるのか、私たちには決してそれをコントロールできないから、思わぬ光景を見て肝を冷やすんだわ」
「なんだかぞっとする話だね」
 僕は思わず肩をすくめた。
 そして、「そうか、だから、閻魔さまの前では人は嘘がつけないんだ」と、言葉を続けた。「閻魔さまは何もしなくても、罪人の脳の中の記憶が走馬灯的に再生されるのだから、裁きは瞬時に行われ、それは公平なものかもしれない」
 水月は僕を再び見て、「私、怖いの」と囁いた。
「何が?」
 僕はギクッとして、水月を見た。
「問題はこれからなのよ。そう、本当の問題はこれかな」
 水月は自分に言い聞かせるように、そう言った。
「洋、私たちが走馬灯的体験をしたとしたら、いったいどんなシーンが蘇ると思う? 私、なんだか怖いの。もしかしたら、火の山の光景から先は空白で、それ以後は一瞬のうちに過ぎ去るのではないかしら。もちろん、それだけ幼い頃に強烈な体験をして、その後の人生は平穏無事だったということかもしれない。でも、私の不安はそれだけじゃない」
 僕は思わず生唾を飲んだ。
 火の山の光景が鮮明に脳裏に蘇ってきた。確かに、それ以後の人生はそれほど鮮明な記憶を残していないのかもしれない。しかし、それはなぜだろか。
「僕は父の死後、自らの意志でまわりと関係を閉ざしてきた。まさに冬眠状態だったんだ。だから、強烈な印象のシーンはそれほどにはないかもしれない。僕がもし閻魔さまの前に出て、自分の秘密の記憶装置を作動させたら、火の山で君と出会ったこと、そして別れたこと、K大学で再び出会ったこと、なんだか、すべて君とのシーンばかりじゃないかな。だから、君なしではこの先も生きていけないんだ」
 僕は水月の気持ちを惹きつけようと、ここぞとばかり力を込めた。だが、その一方、自分の軽薄な言動が水月の閉ざされた雰囲気と合わない気がして、妙に落ち着かない気持ちになった。
「洋、私が言いたいのはそんなことじゃないの。話を変な方に持っていかないで」と、水月がきっぱりと言った。
「じゃあ、何がそんなに不安なの?」
 僕は戸惑いながら、そう聞いた。
「さっき、記憶の風景の話をしたでしょ? そして、私と洋とでは、同じ景色を見ても、実はそれぞれ異なったものを見ているって」
「ああ、覚えている。でも、それは人間、誰しも同じであって、僕と水月だけが異なった世界にいるわけじゃないよ」
 僕は不満そうに、口をとがらせた。
「そうじゃないの。あなたが閻魔さまの前に映し出す風景と、私のそれとは明らかに違う。そして、その違いは決定的なのよ」
 水月が少し枯れた声で言った。
「過去の記憶がどうであっても、今二人が同じ風景を共有すればいいじゃないか。何も過去にこだわらず、これから二人で一緒の風景を作っていけばいい」
 僕はいらだちを隠せなかった。
「ううん、違うの。違うのよ」
 水月は小さな声で、しかも、明らかに絞り出すような声で言った。
「私、不安なの。こうしていると、苦しくて苦しくて、どうにもならなくなる。どうしたらこの苦しみから逃れられるのか、私には分からないの」
「だから、僕がいつもそばにいるよ」
 水月は僕から距離を置き、じっと僕を見つめた。いつの間にか、辺りの乗客の様子が視界に入らなくなっていた。電車がどの駅で止まり、いつ動き出したのかも分からない。
 いや、今が電車の中なのか、それさえも分からなくなっていた。
「洋、大好きよ、だから、こんなに苦しいの」
 水月の唇からそうした言葉が漏れた時、僕の心臓はきゅっと締め付けられて、呼吸さえ困難になった。
「何も心配いらないよ」と、僕が言った。
「そうじゃないのよ」
 水月が悲しげに、首を横に振った。
「何がそんなに不安なの?」と、僕が聞く。
「幼い頃の濃密な記憶の風景に重ねて、今の風景を見ているとしたら、あなたと私が同じ風景を見ていたとしても、それは全然別の風景を見ていることだって、分かる? あなたと一緒にいたいし、あなたがいなければ狂おしいほど辛くて、それでいてあなたと一緒にいると、逆に寂しくて寂しくて、死にそうになる気持ちって、分かる? ねえ、私、どうしたらいいの? どうやったら、あなたとひとつになれる?」
 僕は言葉を失った。ただ呆然と水月の表情を見つめているだけだった。水月はゆっくりと言葉を続けた。
「私、考えたわ。考えて、考えて、それでもまだ足りなくて、考えた。なぜ、あなたと同じ風景を見ていても、二人が違ったものを見ているのか、お母さんとは同質のものを感じても、なぜあなたにそれを感じないのか。おそらく歴史が違うのよ。二人が同じものを見ても、それぞれが異なる風景の歴史を通してみているの。たとえば、あなたが私のお母さんに初めて会ったら、おそらく私が普段抱いているお母さんと別のものをあなたは見ることになるわ。私には私のお母さんに対する歴史がある。一つ一つの風景を重ねて、私はお母さんと触れ合うの。だから、私は私を棄てたお母さんを棄てることができない。それと同じように、お母さんも私を棄てることができず、必ず舞い戻ってくる。でも、それは同時に私自身がその世界から抜け出せないことを意味している。洋、だから、あなたに助けて欲しいの」
 僕は水月の苦しみが想像以上に深いことを知って、驚いた。なぜ、もっと早く彼女の心を理解してやれなかったのだろう?
 何とかして、水月を守ってやりたかった。だが、僕には彼女の不安を取り除く、秘密の呪文が分からない。事実、僕は焦っていた。
 今、しっかりと水月を受け止めてやらないと、もう二度と戻ってこないのではないか。しかし、僕にはどうしても陳腐な言葉しか浮かんで来なかった。
「もう過去にこだわることは止めようよ。僕は水月の過去など、何も気にしないよ。だから、それでいいじゃないか?」
 水月はじっと僕の眼を見つめ、「あなたの言う通りよ。私の心の奥にあるものを洋に分かってもらおうと思って、どれだけ言葉を尽くしても、結局は何にも伝わらないの。言葉は私の唇からこぼれ落ちた途端に陳腐なものとなり、そんなんじゃないんだと思うけれど、どうやったら洋に伝わるのか、私にも分からない。私、単に過去にこだわっているのではないの。過去を重ねて今があるとしたら、それはすでに過去ではなく、今の私の形成する現在そのものなの」と言った。
「水月、君の過去の原風景はいったいどんなものなの? それを消し去ることはできないの? 生涯その過去を背負っていかなければならないの?」
 僕は水月の思わせぶりな物言いに少しいらつき出し、結局何が問題なんだと、問い詰めるような言い方をした後、それを後悔した。
 水月は不思議そうな表情でじっと僕を見つめた後、思い切ったように、「私、お父さんに何度も何度も犯され続けたのよ」と言った。

 僕は言葉を失った。
 あまりの衝撃に頭の中は混乱し、逆に水月の言葉の意味を現実のものとして受け止められなかった。何かを言わなければならないと思った。
「でも、それは君が悪いんじゃない。体の汚れは、洗ったら綺麗になる。もうこれ以上自分を責めない方がいい」
 そんな言葉が思わず口をついて出た。
 僕は焦っていたのだ。何とか、水月の深い傷を癒やしてあげたかった。だが、その思いが空回りし、話の流れは思わぬ方向へと向かいだした。
「洗ったら、綺麗になるの?」
 水月の表情が、一瞬こわばった。僕の脳裏には「しまった」という思いと、取り返しのつかない言葉を吐き出してしまった後味の悪さが渦巻いていたが、僕にはもう後戻りをする術が分からない。
 しどろもどろになりながら、「そういう意味ではなくて、もう過去のことなんだから、忘れた方がいいと言いたかっただけなんだ」と言った。
「洋、忘れようとしたら、忘れる事ができるの? 記憶って、そう簡単にコントロールできるの?」
「でも、努力はできるだろ?」
 自分でも自分の言葉の軽さに、戸惑っている。水月の視線の鋭さに、頭のどこかで警告信号がなっているのだが、僕にはそれを冷静に受け止める余裕がない。
「あなたには、分からないのよ。確かに、体の汚れは、洗ったら取れるわ。私、そう思って、何度も何度も、皮膚が破れて血が滲み出るほど、ごしごし洗ったわ。でも、違うのよ、決してそんなんじゃない。私が苦しいのは、体が汚れたことではなくて、その時、私の心まで汚れてしまったことなの。そして、私は気がついたの。心の汚れは、どれだけ洗っても決して拭い去ることができないって。その時から私の記憶の風景が変わったの。記憶は決してコントロールできない。何かの時に、突然その風景が浮上して、私を苦しめる。私はそうした記憶の風景を素地にして、新しい風景を重ねる。そうやって、次々に新しい風景を重ねて、私は私の世界を作っていく。それが私の風景の歴史だけど、やっぱりその根底には、あの時の風景があるのよ。そして、その過去は決して拭い去られることはなく、私の中で永遠に繰り返されていく。だから、私は、私の体を燃やしてしまいたかったの。心と一緒に燃やしてしまいたかった。そう願った時、私の中に火の山の風景が生まれ出たのだわ。だから、あなたと私の火の山は違う。一見同じ風景を共有しているように思えても、決して同じじゃないの」
 気がつくと、水月の瞳から大粒の涙が零れていた。
 水月は何かに憑依されたように、僕の見えないものを見、僕の聞こえないものを聞いているのだろうか。
 真っ青な顔をして、目を大きく見開いた水月は、逆に神秘的な美しさをたたえていた。
 僕は水月を手放したくなかった。
 水月の視界には、おそらく僕の姿は映っていないのだろう。
 僕には水月の心が掴めない。
 水月は独り言を言うように、
「体は燃やすことができても、心まで燃え尽きさせることはできない。もし、体が燃えてなくなってしまっても、心だけが残っていたら、いったい私はどうなるのかしら? 心のどこかに記憶の因子が埋め込まれていて、それが遺伝子のように、何度も私の記憶の風景を、クローンを生み出すように再生したら、私、どうなるかしら? 一度起こったことは、何度も起こる。永遠に繰り返されるとしたら、私はどうやってそこから逃げ出したらいいの?」と言った。
 僕は何も答えてやれなかった。水月の心の傷の深さに、ただ呆然と立ちすくむだけだった。
 その時、水月が僕を真っ直ぐに見た。縋り付くような目で、僕にこう言った。
「お願い、助けて」
 僕は心が痛かった。何もしてやれない自分自身が、情けなかった。
「どうしたらいいの?」
 僕は掠れた声で、そう言った。
 水月はやはり僕の返事など聞いてはいなかった。僕の眼を見ながら、自分に言い聞かせるように、
「あなたは決して私の風景は理解できない。だって、あなたの中にはそれが存在しないのだもの」と言った。
「教えて。僕に何ができるの?」
「何も」
 水月はゆっくりと首を横に振った。次第に水月の瞳に、優しい光が戻ってきた。
「何も?」
「何もいらないの。ただあなたがいてくれるだけで充分よ」
「だって、僕には君の風景が理解できないって」
「お母さんに棄てられ、火の山で燃やされる。自分はこの世界でたった一人で、誰も自分のことを愛してくれはしないんだ、世界中でどれだけ大勢の人たちがいても、私は砂漠の中に一人で取り残されたように、ひとりぼっちなんだ、そう思った時、心の底からさみしいって思ったの。その時、洋、あなたと出会ったの」
 いつの間にか、僕の眼にもうっすらと涙が滲んでいた。
「もうじき、駅よ。私、降りなくちゃ。こんなに遅くなって、きっとお母さんが心配している」
 水月がふと我に帰ったように、こう言った。
「家まで送って行くよ。まだ別れたくないんだ」
「ううん、いいの。私の家、汚いから、見られたくないの」と、水月は微笑みながら、優しく言った。
 僕は水月と永遠に会えないような気がして、「じゃあ、せめて駅を出るところまで、見送らせて欲しい」と言った。
 水月は「今日はありがとう。それにごめんね。変な話、いっぱいして」と言った。
「嬉しかったよ。君の心の中がほんの少しでも分かってよかった。僕はなんて鈍感だったのだろう」
「ありがとう」と、水月が僕の手を握りしめる。
 それから、ちょっとだけ僕を正面から見つめ、一瞬、彼女は頬を僕の肩にすり寄せた。
「嫌だな。なんだか永遠の別れをするみたいだよ。またすぐ会えるよね」
 嫌な胸騒ぎがして、思わずこう言った。
 水月は「うん」と言って、頷いた。
「約束だよ」
「変な人」
 水月が笑った。

 電車はやがて寂しい駅で止まった。
 二人の前には、数人の乗客が降りただけだった。
 風が強い夜だった。
 売店はすでに閉まり、照明が全体として薄暗かった。
 僕たちは何度も立ち止まった。何かを言おうとしたし、また何を言っていいのか分からなかった。僕には水月と話さなければならない、重大なことがまだたくさん残っているように思えた。
 僕たちは別々の風景を持っている。確かにその通りだ、そして、お互いに相手の風景は決して理解できない。
 でも、人生は本来そういうものだと思った。
 僕は水月がいなければとても生きてはいけそうにないし、水月も同じだと信じたかった。
 だが、胸騒ぎは収まらなかった。
 水月が先に歩き出し、何度も僕が立ち止まった。その度に、水月も立ち止まって、振り返った。
「もう行きましょう。あまり遅くなれないから」
「ああ」
 僕は仕方なく歩き出す。改札口を抜けると、小さな階段があった。駅の前はロータリーとなっていて、僕の眼には何とも寂れた駅前の風景が飛びこんできた。小さな商店が何軒が並んでいるだけで、どの店も灯りを消して、人気がまったくない。
 僕たち二人は階段を降りようとして、はっと息を止めた。階段を降りたその正面に、一人の人間が二人を待ち構えるようにして立っていた。

 小太りで、暗がりのせいか、まるで影のようだった。
「お母さん」
 と、水月が小声で言った。
 僕は驚いて、その人影に目を懲らした。
 髪がぼさぼさで、顔は酒焼けをしたように黒く、むくんでいた。全体に陰湿な雰囲気で、華麗な水月とは似ても似つかなかった。
「心配で、迎えに来たのよ」
 と、女は言った。
 水月は女のそばに行き、「うん、遅くなったから、送ってもらったの」と言った。
 女は怪訝な表情で、僕の顔を凝視した。
 そして、僕から水月を守るように、一歩前に出た。
 水月は困った顔で、「こちらが、洋」と、女に紹介しようとする。僕がその場でお辞儀をすると、女はそれを無視するように、「早くおいで」と水月の腕を強く引っ張った。
 女はどんよりとした目で僕を一瞥したが、その表情には敵意がありありと見えて、僕は何とも嫌な気分に襲われた。
「さようなら」
 水月の声がする。
 二人は僕に背を向け、暗闇の中を歩き出す。
 僕は何も言えずに、ただその場に立ちすくんでいる。
 もう二度と会えない気がして、僕は大声で叫びたくなる。
 水月は一瞬立ち止まり、僕を振り返った。
 なんて寂しい表情なんだろう。
 僕はもう一度水月を呼び戻そうとした。だが、言葉は喉につっかえ、僕はその場で蹲ってしまった。
 女は再び、水月の腕を強く引っ張った。二人は暗闇に向かって歩き出し、もう二度と振り返ることはなかった。
 闇はどこまでも深く、僕は水月がその中に溶けてしまうのではないかと恐れた。
 気がつくと、終電がでたのか、駅の灯りも消えようとしていた。 

ありがとうございます。とても励みになります。