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大人の「現代文」……『羅生門』11明治人の葛藤

 日本人の美徳

 はっきりいいましょう。明治(及びそれ以後)の先達は、無理をしすぎたのだと思います。自分の親、親の親、親の親の親、親の親の親の親……、から連綿と受け継がれてきた根本感覚、一言で言えば「伝統」を無視して、自分が学んだ「西洋」との合体を夢見たその裏返しに、ある種の日本への蔑視があった。西洋への憧れと自己蔑視。私は『羅生門』という小説の本質にそれがあったと思っています。

 下人は、あくまで下人です。つまり、庶民の一人です。そこに象徴されるのは「当たり前の日本人」でしょう。「当たり前の日本人は」普段は「善人」ですから、盗人になるなど想像だにできません。しかし、です。自分がもし、「飢え死に」するほど追い詰められるとしたら、普段持っている「人間への「根本善意」を維持できるか?「根本善意」(これを芥川は「道徳」と呼びますが)などは、リアルな現実(生死がかかる状況)になればくそくらえだ、そういうことでしょう。

 しかし、これは(頭で考えた)論理です。つまり「合理的」にはこう考えるのが妥当だ!といった程度の論理ということです。なぜかというと、盗人になどなるなら「飢え死に」のがマシと考える日本人は、これだけ犯罪が「近代的繁栄!」している現代においても相当数いると私は思うからです。もちろん、明治よりずっと豊かな経済を現出させている現代においては、それはある意味それ自体ムリな想像ではありますが……。

 日本をなめてはいけません。「人間を大切にする」(これは人間同士の「こころ」の通い合いを大切にすることです)ことは日本人の最も大切な美徳ではないでしょうか?だからこそ、その「もろさ」を証明するために、芥川は「人間の極限状況」を持ち出したわけですが、それでも、私は「美徳」の方が有利と見ます。それほど、日本人の人間への信頼は強いものです。人を裏切りたくないという気持ちは強いものです。ほとんど「本能」ですらあると私は思うのですが、皆さんいかがでしょうか?

 いやー、なんとお花畑か!現代のいわゆる「特殊詐欺」の現状を見てみなさいよ。あなたみたいなことをいう人がいるから、被害があとを断たないんだ。そんな声が聞こえそうですが、これはもっとゆっくり考えねばならないテーマです。また章を改めましょう。

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