拘置所への道。面接に行く。

拘置所へ移送された息子

写真は本人とは無関係です

公判日も近まってきた。所轄の警察署での面会は最悪な状況である。仕切りの向こうからの声がほとんど聞こえないからである。建物の構造が古くてどうあったとしても、その辺の環境は最低限整えて欲しいところである。

その日私は自宅近くから午前の高速バスに乗り、県境を越えてその町に向かった。終点のバスセンターに着くと、そこから大きな通りに出て、今度は地下鉄の入り口を探す。

歩きながら、日差しが強いので帽子を忘れたことに少し後悔した。やがて地下鉄表示のある階段を下りてはみたが、そこは広い地下街になっていてすぐには改札には着かなかった。

表示だけを頼りに、地下街を結構長く歩いた気がする。そしてようやく改札の券売機前にたどり着いた。幸いなことに乗り換えなしの路線一本で目的の拘置所のある町に行くことができる。

受付で戸惑う


思ったよりも入り口の受付あたりは無警戒な感じがする。すでに開いているドアを押して中に入ると、小さな小窓の受付らしきものがあるが、殺風景である。

受付の内側には一人の担当者しかいなくて、私のような初めての者にいくつかめんどうなことを説明するが、私は戸惑い、「差し入れ」のことしか伝えきれなかった。

「差し入れ」の要件のすんだ先に「面接」の受付があるように思っていたからだ。そのあたりの説明者が一人では足りないと思う。大きな病院などではもっと万全な対策が取られている。

差し入れの内容


差し入れたものは、Tシャツ(1)、短パン(3)、マンガ本(3)の3種類だったが、手紙は郵送のみだと突き返された。マンガ本に挟んだ紙のしおりもNGだと返されてしまった。その辺のラインがよくわからない。

拘置されている息子の方から持ち帰って欲しい物としての宅下げの願いが出ている者はないかどうかを確かめてみたが、それはないという返事だった。
「宅下げ」などという専門用語?はこの件が無ければ知る事もなかったに違いない。

面接


面接場所に隣接する控室のソファーにすわった。午後1時過ぎのことである。そこにはテレビが一つ置いてあり、野球の話題の話が続いていた。ただ、背広を着た5-6人の人達がいて、その立ち話の声がうるさい感じがした。

あとで、分かったのは彼らは反社関係の人達と言う事らしい。1時半ごろ面接が終わったらしく、一斉に帰っていった。そのあとしばらくして「28番でお待ちの方、8番の部屋にお入りください。」とのアナウンスが流れた。

ドアの向こうの廊下に出て、8番の面接部屋のドアを探した。そこは小さな部屋で精々2-3人しか入れそうにない狭さだ。中仕切りの向こうにはすでに本人が座っていた。

本人の真横には係の者かが、内容の記録のためかスタンバっているが、その近さは異常だろう。

話しをした内容は


質問その他
・公判に向けて、弁護士さんと打ち合わせたことや、聴いた話について
・臨床心理士さんの心理検査の結果を基にした「治療計画提案書」は本人に届いているかどうかについて。
(これについて届いていないというので、私から大まかな要点を説明する。弁護士さんより頂いた、そのコピーは持って行かなかったので、詳しいことには、敢えて触れず。)本人は、治療についてはすでに同意していた。

・拘置所や入所する刑務所での意義ある過ごし方として、出所後にすぐにつながる治療(認知行動療法)を効果的に始められるように、どう過ごすかを考えようという提案。
・「瞑想」を習得するのは自分を知る上で効果があるのではないかという提案。すべては「依存症」の克服のためだ。

・その他、弁護士さんから聞いたという判決の予想的な長さについて。

臨床心理士さんに出して頂いた「治療計画提案書」の中身は次の記事で触れることになるだろう。

日頃、塀の中とは無関係な健全生活を送られている大多数な市民の方々とは当面無縁の経験をここ数年で経験している私たち家族である。これは、ドラマではなく事実の出来事だ。

興味を持って頂いた方は、是非この先の経緯も見守って欲しいと思います。


よろしければサポートお願いします。いただいたサポートは依存症の息子の治療に使わせて頂きます。親の私は既に古希を迎え、この年になっての試練を家族で乗り越えたいと思います。