親子留学がしたかった
今はもうほとんど使っていないメールを整理していたら、娘が4歳になったばかりのころに、幼馴染に送ったものが出てきた。
育児日記はつけなかったので、こんなことを考えていたのか、と我がことながら新鮮だった。どこで何をしたかは覚えていても、その時の気持ちはすっかり忘れていたから。
娘の4歳の誕生日は旅先の香港で迎えた。メールには、親子留学先としての視察だと書いてある。 なんと、全く記憶にない。
早期退職は娘が生まれたころから楽しみにしていた。だけど、もともとが大量採用のバブル世代に抜けてもらうための施策だったので、氷河期世代の私たちはいつもニンジンをぶら下げられたまま、応募できる年齢が目の前で何度も上がってしまって、42歳になっても権利はなかったのだ。
アジアの優秀な人と職を争わなきゃいけない、なんて考えていたんだ。今なら内向的な娘が海外で仕事をするなんて想像もつかないけれど。子育てとは、子どもの成長にあわせて、現実を知るというか、諦めを知るというか、まぁそういうことなんだわ。
あの頃は親子留学=会社を辞めて無職でいくということだったけれど、noteの世界を知った今ならば、マレーシアやタイの企業に転職するとか、リモートで仕事を持って行くとか、色々と選択肢はあっただろうな。
日本は子どもたちの天国だといったのは、イザベラ・ローズではなくて大森貝塚の発見で有名なエドワード・モースですね。テキトーなこと書いてるな。
そうだった。放課後、ランドセルを玄関で放り投げてそのまま飛び出していける子ども時代を重視して、超ドメスティックな子育てをしたのでした。
そろそろ外遊びも卒業する小5から2年間だけ海外に連れて行こうとしたらコロナでロックダウン。完全に時機を逸したのだ。
そうそう、奮発したケーキより15円の路面電車の方がいいと言われたんだった。それにしても、いくら大人しい子とはいえ、4歳児をアフタヌーンティーに連れていくなんて、我ながらどうかしてる。私が行きたかっただけなのが見え見え。
香港では1日は現地発のツアーに参加して名所を巡り、1日はマカオに行って、残りの3日間は、一向に飽きない娘に付き合って朝から晩まで路面電車ばかり乗っていた。あの頃は、路線図を見るのは専ら私の役目だったけれど、今は海外に行くと、娘がスマホのアプリでパパっと調べて「次で降りるよ。2番に乗り換え」なんて、目的地まで連れて行ってくれる。本当にあっという間に、一瞬で大きくなってしまった。
結局、娘が海外で現地の食事ができるようになったのは、同い年のお友達と一緒に行った8歳の台湾からだった。それまではレストランに入ろうとすると怖がるから、毎回、青の洞窟シリーズに助けられていた。そんなこともすっかり忘れていた。
娘には常々「もう。帰国子女にしてくれたら、こんなに英語に苦労しなかったのに」と文句を言われている。
私も模索はしたのだ。忘れていたけれど。
「まぁ、いいじゃん。日本の小学校も楽しかったでしょ?」
いつものセリフに、少しだけ説得力を持たせられそう。