疑惑
生温くやわらかい風が頬を撫でる。
思わず見上げた、生まれてから何度も見たはずの、特段変わり映えのしない曇り空のことを、僕は一生忘れることはないだろう。
社会人3年目の春。
僕に後輩ができた。
彼はとても真面目で素直な僕の自慢の後輩だ。
しかし、僕はどうしても見過ごせなかった。
今日こそはちゃんと言おう。
そう何度も覚悟を決めた。
もし彼自身が気づいていないのならば尚更、早く言わなくては、取り返しのつかないことになるかもしれない。
臆病な性格の僕にとってそれはとても勇気のいることだった。
いや、僕の性格が臆病でなかったとしても、それはとても勇気のいることだっただろう。
「……あの、ちょっと時間いいかな?」
「先輩、おはようございます!
どうしたんすか??朝から暗い顔して…
あ、俺まさかなんかやっちゃいました…?」
彼の赤みがかった顔を見て、胸が苦しくなり、僕はもう目を合わせることができなくなっていた。そう、怖かったのだ。
「いや…そうじゃないんだ…
もしよかったら昼休みに屋上で少し話せないかな…待ってるから…」
やっとの思いでそう言い残し、僕は逃げるようにその場を去った。
我ながら無様だ。
しかし、これでもう逃げることはできない。
僕は何度目かの覚悟を決めた。
屋上に出ると少し開放的な気分になった。
大きく深く息を吸う。
"カッ…カッ…カッ…"
屋上へ続く階段を登る足音が聞こえる。
妙によく響く独特の足音だ。
足音が近づくにつれ、僕の心臓の鼓動は早くなった。
「先輩!!すみません!!会議が長引いちゃって…!だいぶお待たせしちゃいましたよね?」
「いや、いいんだ…。突然呼び出したりしてごめんな…それで、その…」
喉の奥に言葉が詰まる。
彼の吊り目がちの大きな瞳から注がれる視線が痛い。
「…先輩…?」
10秒間心の中でカウントダウンをした。
5秒前。
僕は空を仰ぎ、もう一度大きく息を吸い込んだ。
「最近さ、天狗になってないか…?」
僕の心臓はもうはち切れそうなほど激しく鼓動していた。
「え!!!まじすか!!!
うわ、俺態度デカイってよく言われるから気をつけてたんですけど…
ほんと、すみません…!」
違う。
僕が言いたいのはそういうことじゃない。
「いや、そうじゃなくて…
あの、なんて言ったらいいのかな…
その、天狗なのかなって…」
「…あ、この喋り方ですか…!
先輩に対してちょっと不躾でしたよね…
先輩優しいからつい甘えちゃって…
ほんと気をつけます…」
違う。
しかし、これ以外の的確な表現を僕は知らない。
「違うんだ…君の勤務態度はとても真面目だし、僕に対する態度も後輩として、とてもふさわしいものだと思うんだ…
僕にとって君は自慢の後輩だよ…
でも、僕には君が天狗にしか見えないんだ…!」
「先輩、どうしちゃったんですか…?
言っていることがめちゃくちゃですよ…?」
本当に僕はどうかしているのかもしれない。
僕の目の前で天狗が困惑している。
半年前から後輩が天狗にしか見えなくなったのだ。
最初は些細な違和感だった。
彼の顔がいつもより赤い気がした。
次の日、彼の顔はさらに赤みを増していた。
日一日と、彼の顔は赤くなり、目は吊り上がっていった。
そして今、目の前にいる彼は完全な天狗の姿をしているのだ。
「…君が履いてるのは下駄だよな…?
しかも一本歯下駄だ…。それになんで、いつもそのデカイ葉っぱを持っているんだ…?」
先ほどとは対照的に言葉が溢れ出して止まらない。
「山伏の格好してるし、入社当時そんなに鼻長かったか…?」
「ちょっと先輩〜、鼻のことは言わないでくださいよ〜。昔から鼻高いのコンプレックスなんですから〜」
はぐらかされている。
どう見ても、彼の鼻は高いのではなく、長いのだ。
それにその他の疑問に対するアンサーももらえていない。
もうなんの躊躇いもなくなっていた。
「なぁ、君は天狗なんだよな…?」
生温くやわらかい風が僕の頬を撫でた。
"バサッバサッ"
目の前にいたはずの彼は、曇り空を背にしていた。
「すみません!先輩!
俺そろそろ行かなきゃなんで!
取引先とアポあって!
ご指摘ほんとありがとうございました!
先輩疲れてるんですよ、またゆっくり飯でも行きましょう!」
身を翻し、彼は曇り空の中に消えていった。
湿気を含んだ土のような匂いがした。
雨が近いのかもしれない。
彼の好物はなんだろう。
インターネットで検索すれば出てくるのだろうか。
僕の疑惑は疑問へと変わっていた。
終
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