道端にころがる幸福

みなさん、こんにちは。

繁栄とは何か、成功とは何か、幸福とは。
こんな哲学じみた考えは、形が違えどどんな人も一度や二度は考えるものです。

つまり言ってしまえば、人はいついかなる時も自分の欲求が叶えられる状況でありたい、そう考えるからこそ成功や繁栄を求めるのだと思います。

しかし、ある人(Aさん)から見れば成功や繁栄していると感じる人(Bさん)でも、常に強迫観念という呪いに囚われ続けているケースがあるものです。それはいったいなぜなのか。

その答えはとてもシンプルで、そのBさん自身が不安や不足感といった感情を常に与え続けているほかありません。

いやいや、その人の職場内や家庭内の不和など、そのBさんを取り巻く環境が本人に不安や不足感を与えているのではないかという意見もあるかもしれません。

しかし、いかなるケースにおいても言えることですが、本人以外の第三者がその当人の感情を選択するということは不可能となのです。そのことは恋愛における告白の場面を考えれば明らかでしょう。

どういうことかと言うともし仮に、対象の感情を選択することが可能であるというなら、愛の告白の際に、相手の感情を自分を愛するというものを選んだ上で告白すれば、100%断られるということがないのですから。

この考えを極論だと片づける人もいることでしょう。
しかし、好きという感情に限らず、嬉しいや悲しい、寂しいなどの感情は、その心情模様に違いはあれど、一個人が当人の内面で発現させるという共通点は抗いようのない、この世の絶対法則ではないでしょうか。

以上のことから、感情の選択権はいついかなる時も自分以外ありえない。

そのことを踏まえると、幸福感や満足感といった自身の欲求が満たされた際に生じる感情も上記の法則に漏れず、当然人間の感情なのでその幸福感や満足感を発現させられるのは自分しかいません。つまり、第三者からもたらされることはあり得ないのです。

なので、自分にお金があったならや自分がもっと容姿端麗だったならなどの仮定は、自身の成功や繁栄においてまったく必須ではないということが明らかとなります。つまり、目線を変えれば自分のいたるところに成功や繁栄が道端の石ころのように転がっているのに、多くの人は見て見ぬふりをしているのです。

では、人はなぜ自身の成功や繁栄、幸福などを見えにくくする欲望や欲求を持っているのか。そんな疑問が生じると思いますが、これは話が長くなるのでまた別の機会に述べたいと思います。

したがって、今回の話をまとめると、人の成功や幸福は、求めることも大切かもしれませんが、探せば誰もがいくつも有しているもの。それに気づくことも大切なのではと僕は思います。

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