和解は例外なく理解からもたらされる
みなさん、こんにちは。
なぜ人は争うのか。
それは、端的に言うなら意見の対立によるものです。
なので、争いというものは対立者同士が妥協点を見出しさえすれば、その瞬間に終わるものであり、全然複雑なものでは本来ないはずなのです。
しかし、争いというのは今この時もどこかで生じて、酷い場合には対立状態を崩さず、互いを嫌悪しあっています。それは、非常に悲しいことです。
なぜ人は和解し合うことができないのでしょうか。
僕個人的に思うことは、それは自身の欲望という扱いを間違えれば、理性を持たない獣にもなりえる感情を、コントロールすることができない、或いはコントロールするつもりがない人が少なからずいるからなのだと思います。
しかしながら、本来人の欲望というものは完全なる悪かと言えば、そうではありません。例えば、食欲や睡眠欲、性欲といった三大欲求は人が健康的かつ人という種を残していくという生物において至極当然の行為を果たす上でなくてはならないことは言うまでもありません。
けれど、だからと言って自分の欲望に身を委ね、好き勝手やるとなると、それはただの生物であって、人間と呼べないでしょう。それこそ、理性を持たない獣でしかありません。
したがって、人が人たらしめるのは、自身の欲望を認め、それを理性的に解消できるといった理知的さにあると僕は思います。
ただ、ここで問題となるのは、我々個々人が理性を発揮できるのは、己のみであり、自分以外の他者に発揮することは出来ないということです。
もちろん、法律や規制などの社会的なルールで縛ることで、ある程度の抑制力を持たせることは出来るかもしれません。しかし、それはあくまでも抑止力にすぎず、絶対的ではありません。
つまり、どれだけ自分が理性を働かせながら生活を送っていたとしても、もしかしたら自分の理性のコントロールを放棄した人と出くわし、何らかのトラブルに巻き込まれる可能性を、残念ながらゼロにすることは、まず不可能と言っても過言ではないでしょう。
では、理知的に生きることは無駄ではないかと言うと、それもまた違うと言えます。なぜなら、理知的に生きるということは自身の感情を始めとする思考や行動をコントロールできる状態にあるということだからです。
つまり、上記のような理知的に生きることを放棄した人とのトラブルに巻き込まれた時、相手と同じように理知的にではなく、自身の感情のままにぶつかれば、その争いは悪化の一途を辿る可能性が高くなり、争いをより早期に解決する為にも、自身の理性は必ず必要となるでしょう。
要するに、今回の話をまとめると、何らかの形で誰かと対立状態に陥った時、相手に理性や常識を求めるのではなく、まずは自身の理性を発揮する手段を模索すること、それが人との争いを終結させる唯一の手段です。
言い換えれば、相手が何を欲しているのか、どうしたいのかを理解しようとすること、その姿勢を持つこと。それが出来なければ、一生争いというのに終わりは訪れないと僕は思います。
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