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エッセイ:幻私痛について

ワタシは、こういう人物が好きだ。

ワタシは、こういう人物になりたい。

ワタシは、本来こういう人物のはずだ。

ワタシは、ワタシは、ワタシは、、、。


本当のワタシ、というものがあるかどうかは分かりません。

しかしながら、ある個別具体的な身体を、「わたし」と呼ぶことにします。

この身体「わたし」は、五体満足で、男性器があり、内臓があり、新陳代謝、あるいは身体の活動の維持のために栄養を補給している有機体です。

脳、胃、膚、歯、髪、手、爪、腸、神経、筋肉、骨。

役目を割り振られ、定義付けられた身体があります。

この身体「わたし」において、立ち現れる「ワタシ」というもの。

ひとはそれを、エゴ、人格、精神、心、さまざまに呼ぶことができるでしょう。


このワタシは、ときに不思議と痛みます。

幻私痛とでも呼びましょうか。

ワタシは、身体「わたし」が持つ能力以上のことをできると錯覚してしまう。

当然できない、そして、できないことが痛みに変わる。

痛い、痛い、痛い。

この痛みに対する処方箋はないのでしょうか。


処方箋のひとつは、ワタシから逃げてしまうことでしょう。

ようは、痛みの原因である「ワタシ」を忘れてしまうことです。

お酒を飲む、とりあえず歌いまくる、美味しい食べ物を食べる。

走る、泳ぐ、運動する。

身体「わたし」を動かしまくることで、ワタシを忘却することです。


別の仕方では、「ワタシ」を相対化してしまうことです。

ようは、他のヒトの人生を知ること、あるいは、別の「ワタシ」たちがいることを知ること。

たとえば、小説を読んでみる。

そこにはワタシではない登場人物としての「ワタシ」がいるでしょう。

あるいは、芸能人、アーティスト、推し、他者を知ること。

ワタシ以外の物語を生きる「ワタシ」を知ること。

これは要注意です。

この他者の「ワタシ」に、「ワタシ」を自己投影してしまえば、症状が重たくなる可能性すらあります。


また、別の仕方では、料理を作ってみることも良いでしょう。

どういうことか。

それは、身体「わたし」の限界を知ることです。

たとえば、料理をしてみると、自分が身体を上手く使えないことが良く分かります。

何を切っても形が綺麗に揃わない、味が美味しくならない、上手くフライパンを振れない。

わたしは、比較的料理をする人間ですが、いつまでたっても料理がヘタです。

一方で、料理が得意な人は、粘土細工をしてみると良いでしょう。

ようは、身体が上手く使えないことを意識すること。

すると、自己投影すべき身体「わたし」を過大評価せずに済みます。

むしろ、幻私「ワタシ」は身体「わたし」との上手い付き合い方を学ぶことでしょう。


ようは、創作行為が幻私「ワタシ」のリハビリになるということ。

たとえば、文章を書くことは奥深い。

絵を描くことも、音楽を作ることも、粘土細工をすることも。

何かを作ろうとすれば、必ず身体「わたし」の限界を知ることになります。

そういう意味では、一番最初に挙げた身体「わたし」を使うスポーツも同様かも知れません。


痛いとき、ワタシが痛むとき。

身体「わたし」を動かしてみる。

身体「わたし」には何ができるだろう、どこまでのことができるだろう。

何ができて、何ができないのだろう。

できないことに悩むのではなく、できないことを楽しむこと。

そうして、ワタシの幻私痛を和らげることができれば。


痛い、痛いけど、それがわたしであるということ。

痛い、痛いけど、それがワタシであるということ。


おわり

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