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エッセイ:文体、または今後の記事の予定について

わたしは日頃から「三つの図形、一本の線」というマガジンでは、エッセイや感想文や詩や小説を、「デレラの読書録」というマガジンでは、そのときに読んだ本の感想記事を書いています。

ちょうど今は「三つの図形、一本の線」で投稿予定の記事を下書きしています。

二つのエッセイを少しずつ進めているところです。

二つのエッセイは連関しています。

もう一つの(まだ書き始めていない)エッセイと合わせて、三部作となる予定です。

三部作と言うと何だか大それた表現ですが、荒削りで、言ってしまえば生のまま取り出したような文章です。

ようは未完成です。

それでも、書き切ってしまって投稿してしまおう、というザックリとした気持ちで書いています。


わたしはこの三部作を、イメージについての三部作、と呼びたいと思います。

どういうことか。

三つのエッセイは、「イメージ」という言葉がキーワードであり、それを蝶番に繋がっているということ。

イメージというキーワードについて、三通りのやり方で思考実験しているということ。

ようは、わたしのなかで、「イメージ」というキーワードぎ飛び交っていて、過去の記事とも接続しながら、三部作という形で一度まとめてみよう、とそういう塩梅であります。


その三部作では、デレラ文体が多用されています。

では、デレラ文体とは何か。

それは、この記事内でも、今ちょうど二回使われているわけですが、ようは次のようなものです。

〇〇とは□□である。
どういうことか。
□□は、△△であるということ。
言い換えれば、△△は、××であるということ。
つまり、〇〇とは××なのである。

というような、文体。

あるいは、

つまり〇〇である。
では、〇〇とは何か。
それは□□ということである。
ようは、△△ということ。
あるいは、××ということ。
つまり、〇〇は□□なのである。

というような、文体です。

ようは、要約すると、「である」と言ってた後で、「どういうことか、または、とは何か」と問いを投げかけて、そこから連想ゲームを始める、という文体。

この文体は、わたしは意識的に使っているのですが、今回の三部作では、とても多用されています。

では、なぜ多用するのか。(→問いの投げかけ)

それは、わたしは格闘技をするようにして文章を書いているからです。

格闘技をするように、というのは、ようは思考実験であるということ。

ある問いについて、思考を巡らせて、それについて仮にでも何かを書いてみるということ。

そのためには、問いを投げかけて、そこから連想ゲームを始めるようにして、何かを捻り出さなければなりません。

つまり、何か「技」を捻り出すために、格闘技的に「デレラ文体」を駆使しているわけです。


この文体のポイントは、無理矢理にでも「断定形」の言葉を使うことです。

断定形とは「〇〇である」というような、何かを決めつけるような言い方のことです。

この断定形は、なかなか使うことが難しい。

なぜなら、わたしは何かの専門家でもなければ、学者でも、マニアでもない。

何にも詳しくない。

けれども、何かについての疑問は持ちます。

その疑問について、考えるとき、専門家でもない自分が「ああ、これは〇〇である」だなんて言えるはずもないのです。

しかし、ここは自由な言葉の広場。

好きに踊って良いと言われて、恥ずかしがっている場合ではないのです。

わたしは、下手くそでも、可笑しくても、恥ずかしくても、好きに踊ってみたい。

そういう欲望が、デレラ文体となって、現れているのです。

ようは、下手くそな論理だけど、とりあえず思考実験的に、あるいは、試行錯誤的に「〇〇である」を使ってみる、ということ。

さらに言えば、文章をドライブさせるような、文章を前に進めるための推進力として使っているということ。

暫定でも良いからとりあえず文章を捻り出すこと。

だから、わたしの記事はどれも検討不足であり、正論には至っておらず、仮断定的な、中途半端な文章なのです。

そう、ようは仮断定です。

仮に断定して連想を続けてみる、ということ。

その仮断定の力を借りながら、わたしは「イメージについて」のエッセイを書いてるのです。


そういうふうにして書かれた文章は、とても下手くそで、奇妙な踊りのように見えるかもしれません。

しかし、ここはひとつ一緒に踊ってやろうという方がいらっしゃったなら、ぜひご一緒ください。


三部作について。

第一の記事は、「エッセイ:エッセイ:文字と言葉、あるいはマテリアル・イメージ・シンボルについて」です。

次の土曜に投稿を予定しています。

ここでは文字と言葉という二項の関係を考えることから出発して、マテリアル・イメージ・シンボルの三項に展開して、最後にひとつ飛躍をして見せます。

かなり抽象的な話になりそうです、スライドなどの図を使いながら書き進めています。

第二の記事は、「エッセイ:非一般的読解について」です。

ここでは読解について図式的に考えています。

読み解くことについての思考実験です。

読み解くことについて、一般的読解と非一般的読解という二項対立を設定します。

そして一般的読解から逆照射するようにして「非一般的読解」とは何か、それはどのような領域なのか、ということについて考えています。

第三の記事は、「エッセイ:イメージするとはどういうことか(仮題)」です。

ここでは、文芸作品や科学評論などをもとに、イメージするとはどういうことなのか、ということについて考える予定です。

もしも興味がある方は、ぜひ記事を読みながら一緒に考えてください。

では、また。

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